続・徒然なるままに
【道昭 日本仏教を形作る】(1)「西遊記」の三蔵法師に師事 最新の仏教を広める - 産経ニュース
2022/11/28 12:20
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【道昭 日本仏教を形作る】(1)「西遊記」の三蔵法師に師事 最新の仏教を広める - 産経ニュース

https://www.sankei.com/article/20221128-RT4Y5CH5ZZPXDMINRVG6N2JIOE/



2022/11/28
道昭法師座像(華厳宗元興寺蔵)



飛鳥時代、遣唐留学僧として日本から唐に渡った僧侶のなかに道昭(629〜700年)がいる。中国の小説『西遊記』の主人公、三蔵法師のモデルとなった玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)(602〜664年)に学んで多くの経典を持ち帰り、日本仏教の形成に貢献した。東アジア情勢の緊迫などで社会不安が高まる中、「天下を周遊して」各地で橋を架けたり、河川交通の整備、井戸の開発を手がけたりと多くの社会事業をなしたことでも知られる。人々を救済する仏教の利他行(りたこう)の実践。それは伝道と社会事業の一体的な展開で、後に続く弟子の行基(668〜749年)らの活動にも影響を与えた。


偶然の出会い

蘇我氏の氏寺として創建された最古の本格寺院、飛鳥寺(法興寺)=奈良県明日香村=で修行していた道昭が、留学僧として唐に赴くことになったのは白雉(はくち)4(653)年のことだった。

『日本書紀』によると、吉士長丹(きしのながに)を大使とした使節団(遣唐使)で、留学僧の中には道昭のほか、大化の改新の立役者となった藤原鎌足の長男、定恵(じょうえ)もいた。一行121人が一隻の船に乗り込み、唐の都・長安に向かった。また、別に120人の使節団も同時に渡唐した。

復元された遣唐使船=平成22年、奈良市



入唐した道昭。国史である『続日本紀』には、「たまたま玄奘三蔵に出会い、師事することになった。三蔵は道昭を特にかわいがり、同じ宿坊に寝泊まりさせた。師(玄奘)は『かつて西域を旅したとき、道中で飢えに苦しめられたが、食を乞うところもなかった。すると、ひとりの沙門(僧)が現れ、持っていた梨の実を私に与えてくれた。それを食べて、ようやく気力を回復させることができた。お前(道昭)は、あのときに梨を与えてくれた沙門のように見える』と話した」とある。






さらに、「経論(釈迦の教えとその注釈)は奥深く微妙で、究めることは難しい。『お前は禅を学んで、東土(日本)に広めることが良い』とすすめられ、道昭はそれを守って、禅定(ぜんじょう)(座禅)に励んだ」としている。


原典求めた師

道昭が師事した玄奘は629年、唐が定めていた鎖国の禁を破り、仏教研究のためインドに向けて出国。広大な砂漠や峻険(しゅんけん)な山岳地帯を踏破し、3年がかりでインドに到着、仏教教学の中心だった中部のナーランダー僧院で「唯識教学」などを学ぶ。

インド各地の仏跡や西域を訪ねて、645年に、サンスクリット(梵語(ぼんご))で書かれた仏教の経典(657部)や仏像などを持って帰国した。旅の様子は『大唐西域記』にまとめられ、明代(14〜17世紀)には、『西遊記』として小説化された。

玄奘三蔵がインドから持ち帰った経典を納めた大雁塔。手前は玄奘像=中国・西安市(共同)




玄奘は唐の天子・高宗が長安に建立した大慈恩寺に、持ち帰った経典を保存・収納するための塔(大雁塔)を造ってもらい、経典の漢訳に精励した。道昭が玄奘に弟子入りしたのは、まさに漢訳作業をしていた時期とみられている。


日本で広がる

道昭は玄奘の下で、唯識教学や三蔵(経典・戒律・仏教学)を学ぶ一方、玄奘の勧めもあり、相州(現在の河南省)・隆化寺の慧満(えまん)について、禅を習学した。

道昭の帰国はいつだったのか。明確な史料がなく諸説あるが、その後の活動記録などから、斉明7(661)年説が有力視される。そうであれば在唐8年。帰国の様子について『続日本紀』には「(道昭が)遣唐使に随って帰朝するとき、別れ際に玄奘三蔵は、所持した舎利(釈迦の遺骨)や経論を和尚(道昭)に授け、『論語(衛霊公)に、人間こそよく道を弘めることができる、という言葉がある。今この言葉を私はお前に贈りたい』と話した」とある。

道昭が唐から持ち帰った仏教の経典。玄奘がインドから集めて漢訳した「成唯識論(じょうゆいしきろん)」などの唯識関連や禅関係の経論、ほかにも玄奘が漢訳したインド仏教の経論などだったとみられている。唯識を根本経典にした法相宗は玄奘の弟子、慈恩大師によって唐に生まれていたが、道昭がその関係経典を日本に伝えたことで、日本にも広がることになった。

道昭が活動した飛鳥寺を前身寺院とする奈良・元興寺の辻村泰道副住職は「道昭の功績としては、新たな仏教の経典、経論などをわが国に伝えたことが大きい。その後の日本の仏教にも影響した。禅の教えも道昭によってもたらされ、日本で広がっていった」と話している。(編集委員 上坂徹)

どうしょう 飛鳥時代を代表する僧で『続日本紀』での表記は道照。舒明元(629)年、河内国(大阪府南東部)丹比郡に、百済系の船恵釈(ふねのえさか)(尺)の子として生まれる。白雉4(653)年、遣唐使に従い、学問僧として入唐(にっとう)。長安の玄奘三蔵に師事し多数の経論を授けられて帰国した。飛鳥の法興寺(飛鳥寺)に禅院を設けて禅を広め、経典を説くなどして日本仏教の発展に貢献した。その後社会事業にも尽くし、初めて「大僧都(だいそうず)」に任じられた。死後は遺言により火葬に付された。わが国最初の火葬といわれる。





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