「僕もそのアパートに住んでるよ」
ルームシェアをする男。三つ子の高校生。家出してきた女の子。星を観測する少年。
トマトルーム
暗闇を誰かが飛び降りた。木々の擦れる音がして、葉が何枚か溢れ落ちた。すばやい移動。猫のようだ。華奢な体は建物をすり抜けて、はじっこにある使われないトイレの窓を、そっと開けたら。
「?」
トイレを出ると廊下にはどこからか光が溢れていた。いつもは無い。他に誰かいるのだろうか。
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「やっ」
音楽を聞いていたから無防備だった。捕まれた手首は高く上げられて、ちょっと筋に来た気がする。空腹に耐えられず、もう片方の手でトマトを掴みにかかるとトマトは長い腕に取り上げられ、食われていった。
「あ〜あ」
ため息と共に思わず肩を落とした。見上げれば、忌々しげな顔。わ、一口!なに、と笑いながらこちらを向く彼に背中を向けた。
また、掴んでくる。振り払おうとすると顎を捕まれて、お腹をしっかり抱えられ、唇を結ばれた。
「しー」
「っ」
舌。トマトの味だ。ばか。
唾液で結んで、わたしの頬が紅く蒸気してから、彼は唇を離した。軽いリップ音。ほら、軽い。意外にとも言えるけれど。
バレタ。
ダメだ。
世界に、愛は溢れているんだろうか。
悩みつつ彼を見る。
「軽い男は好きじゃないよ」
「でも腹減ってたし」
「まあ、うん。え」
彼は見る。ほくそ笑んでいた。頬の熱が下がらないからだ。帯が舞い、綺麗なラインをつくる。
「なに、ソレ」
「これ?」
ぴらりと見せられた形状は、聞いておいてというものだけど、大したものではなさそうだった。ビニル。お菓子パックの外側を包んでいるそれの一部だ。彼は笑って、細長い透明なビニルを、わたしの薬指に結んだ。
ぱ、と私の指より少しごつめの指先が、視界から消える。代わりに私のか細く頼りない指先に、透明なビニルがくるくると巻いて、リボン結びにされて留まっていた。
「…」
「なにこれ」
「私のセリフ」
「思ってただろ」
「…思ってない」
「じゃあ分かってるって思っていいんだ?」
彼を見上げた。適当な表情。ズルい。読み取れない。
「私は、「予約」
薬指に彼は口付けた。トマトに染まった唇だった。
ぐしゃりと歪んだ私の心は、落ちもせず上がりもせずにその場で潰れたようだった。彼はほんの一瞬で、軽い戯れだというに、息をするように薬指を離した。薬指に巻き付いた透明なビニルの先が、ひらりと揺れて、曲線を描き、私に感動を与える。
彼はきちんとアイロンがけされたズボンから、白いハンカチを取り出して口端を拭き取った。橙色に染まっていた。
なんで、此処にこれたかは知っている。私が気まぐれに鍵を開けていたからだ。誰かが入って来られるように。なんとなく寂しくて、空腹感はつのった。
「あのさ、私は、こんなこと続ける気、ないんだ」
「…」
とんと彼の胸を突き放した私の手を、黙って彼が見つめる。
「あなたのルームメイト。いるでしょう。その子と同棲してるんでしょう?」
「俺はね、」
「私は、あなたじゃなくて、他の「俺はね、これがいいの」
骨ばった指が、私の鼻を突く。
─…隣の部屋。彼の同棲相手の部屋を見たことがある。明るい色合いで可愛くて、落ち着いた生活感のある素敵な部屋。
それに比べて私の部屋は、物が無く、無機質で、寂しげだ。
これがいい、ってどういう意味なのかわからず。私は、そのまま後ろを振り向き部屋を見渡した。ん、アナログの箱テレビ。テレビを置く台座なんて買っていないし、その壁の周りには他に何もない。箱テレビがいいなんて珍しいってか、変わってるな。そう思い、もう一度彼の方を向く。
「いた」
また鼻に彼の指爪がささった。
「…」
「…」
「バカなの?」
「箱テレビ?」
「…これって言い方が悪かったけどさ」
「…」
「君がいい」
「名前も知らないくせに」
「向島」
「それ前の人の苗字なの」
「俺の名前だって知らないだろ」
「知りたくないし」
困る。口ごもりながら私は言った。彼は笑顔を固めた。わかっている。彼は彼女と続けて、寂しい私につけ入って、新しい恋愛を楽しみたいのだ。楽しいことを楽しんで何が悪いんだと解いてみる。それで誰かが傷ついて、自分が少しぐらい汚れたって。
でもそれは、やっぱり良くない。もっと拡大図でこの状況は、かなりつまらなく、はしたなく、小さな点に違いないのだ。
指先を眺めた。離れていく。透明な薬指を結ぶ糸は、脱色したように無色だった。真珠さんが教えてくれたではないか。このアパートに棲む私たちに、時間を与えてくるのが誰か。このアパートは、息をしている。
「今日も会ったのでしょう?」
カチャリと二度音がして、私の扉は再び開いた。真珠さん。このアパートで最も謎の存在だ。私がこの人について話していいこともあまり無い。全てはあるルールブックに基づいて、世界は成り立っている。真珠さんは、その中心地にいる人だ。このアパートがまた、小さな中心地である理由として。
真珠は足を私の部屋へと踏み入れた。
「真珠さん。」
私は、微笑んだ。男性か女性かも、ルールブックには記載されていない。そんな真珠さんは、丁寧に頷いた。笑ったかどうかも、記載されていない。
「君は、拒絶をした」
「ええ。でもこのアパートに棲むには重要なことでした。私は彼が好きですが、孤独との恐怖にも常に怯えています。私は私の孤独から逃避するために、胸の焼けつく衝動をこらえ、彼との運命を拒絶しました。私はまた孤独ですが、二人より独りがいいという人間です。独りで歩いていくために、私は独りが良かったのです」
真珠さんは消えていた。外へ出るともう真っ暗な世界だった。しんとした空気が私の鼻孔を、耳朶を、指先を刺激した。かんかん、と階段を上る音がして、見れば彼だった。目があって、彼の視線は階下に注がれた。私は一瞬剃らされたのだと勘違いをして、馬鹿みたいに傷ついていた。
「ねえ」
「…」
声を発したのは彼だった。
「ここ三階だっけ」
「ううん、二階、…」
はっと見下ろすと、そこは二階とは思えぬ高さだった。
「息をする」
「ええ」
「このアパートは心臓を鳴らして、息をして、身震いをする」
魂を持ってるんだ。彼は笑った。おもむろに近づいてきた彼は、笑っていた。気でも違ったのかと彼を見上げたけど、彼は私の隣の部屋のドアノブを握った。「おいで」と彼は言った。私は身構えた。そんなに彼が嫌いか。誰かが訊ねた。「おいで、大丈夫だから」一歩近寄った私の手首を、彼の長い腕が引き寄せた。困る、困る、困る。口をついて出そうな言葉を、必死に飲み込んだ。泣きそうに穏やかな彼の笑顔を見て、私は唇を噛んだのだ。
彼は私の手首を握ったまま、ガチャガチャと鍵を開ける。そのまま、開いたドアの中身を見て、私は思わず「あっ」と悲鳴をあけた。
モノというモノが、ほぼ無くなっていた。
彼は掌に力を込めて、私を中へと率いれる。瞳の中を覗き込むと、諦めみたいな切ない色をした眼だった。向こう側に戸惑っている私が写されていて、私は少し冷静になってくるきちんと着られた草色のシャツから伸びる手首は、少し震えていた。
「ここには、誰も住んでない」
淡々とした声だった。私の声だったかもしれない。私も確信に近くその事実を心中で呟いていたから。
三階だからかもしれない。だけれど、この部屋から見える窓の外は、一階の景色だった。ラビンスに迷い込んだ気分だ。このアパートが息をしているのだ。当たり前だが、階だって変わるのかもしれない。
「名前は?」
「…響ノ介」
「キョウノスケ」
響く、と書くのだと彼は言った。
「独りは、寂しい?」
仄かに彼は笑う。曖昧な返事だ。私だって本当に独りなわけじゃない。それで、本当に寂しいわけじゃないから。本当に、というか、他人より寂しいと言い切る気が、ない。
「私も」
私たちは部屋をでた。誰にも使われていないこの部屋は将来、誰も入らない気もしたし、誰かが棲むような気もした。皮膚みたいなものだ。その場所に、骨も肉も存在する。
「ねえ」
「ん、」
「聞かないの。名前」
「…俺の名前を呼んだらね」
むかっと見上げた彼は、私を無視してそのまま部屋を出ていく。再び鍵を掛けようとしたのを見て、慌ててこの部屋をでる。
「ず、ズルイ」
「うん」
「ズルイ!」
彼は得意なズルさをもって、鍵を閉めた後、額に、鼻にキスをした。それから唇の下に啄むようなキスをする。
「…」
「…」
「響ノ介くん」
よくできました。キスをした。私はその頬をつねってキスをし返した。
聞きたいことがたくさんある。部屋に戻ったら聞こうかな。今聞いたらなんだか信用してないようで、空気を壊してしまう気がする。ちゃんと気持ちを伝えて、それから貴方のこと、いっぱい聞いてみよう。本人に。
トマトの味は、もうしなかった。
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