「ねぇ、アイってナニ?」
ぽつっとした問いかけ。さながら呪文の如きフレーズ。
それは室内の空気を震わせ、やがてすぐに消えて行った。倉庫として使われている、埃っぽい部屋に起こった変化はそれだけだった。つまり、何も起こらなかったと同義だ。当然だ。彼女は魔法使いではなく、只の幼い女の子に過ぎない。
フランはそれでも良かったらしい。小さな肩をすくめている。その瞳が雄弁に語る――元より回答が返ることなど期待してはいないのだと。
わたしはラザ、ラザフォード。人語を操るすべを持たない只の犬。それでも耳を傾けることなら出来るから、精一杯彼女の次の言葉を待つ。
「そんなにいいものなのかしら。よくわかんない。でも大人たちはいつもそのことばを口にするわ……いつだってそうよ。勝手だわ」
わたしはフランが泣いているのかと思った。しかし彼女は涙を流してなどいなかった。錯覚だ。いつだってそうだ、わたしは彼女が泣く姿を見たことが無い。
しかし、言葉にしなくても自然と伝わってくるものがある。痛みだ。
わたしはフランの心が泣いている様な気がした。声にならない悲痛がわたしの胸を打つ。痛み、哀惜、心細さといった感情を。だがわたしの鼻は、その中にある僅かな怒りも嗅ぎ取っていた。
「べつにいいのよ。アイされていようが、いまいが、どっちでも。ケッキョクあたしにはわかんないんだもの」
フランの腕がわたしの首から背にかけて絡み付く。彼女はそのまま甘える様にわたしの毛皮に顔を埋めた。
――どうしたの、フラン。ご主人様に何か言われたの?
そう聞けたらどんなに良かったか。
部屋の外では無数の慌ただしい足音と、沢山の話し声が飛び交っている。段々と近付いて来て、通り過ぎ、また踵を返す音が響く。屋敷の中は今や蜂の巣をつついた様な騒ぎになっていた。働き蜂の一人であるフランはそちらに一瞥たりともくれず、淡々と言った。
「これからいそがしくなるわ。お葬式のじゅんびや、そのあともいろいろと片づけがあるんだって」
今朝未明、この屋敷の主が亡くなった。皺だらけの顔に、昏い眼光の、妄執だけで動いていた男だった。
わたしを拾い、フランに育てさせた男。肉体から常に濁った死のにおいがした男。死因は老衰と聞いた。やはり、と思った。
フランはその最期の言葉を聞いたはずだった。
「……ねぇ、アイさなくていいからそばにいて。一人はイヤ。ヤクソクだよ。……あたしはきっと、あなたがいないのに耐えられない」
――大丈夫。わたしはフランの傍にいるから。
伝わればいいと願いながら、フランの頬に唇を寄せた。やはり彼女からは涙の味がしない。
――ずっと傍にいるから。子犬だったわたしを、フランが守り育ててくれた様に。今度はわたしが返すから。
――だからどうか、泣かないで。
唐突に思考が閃いた。フランは泣かないのではなく、泣けないのではないか、と。だからこんなにも、心だけで泣いている。
「あなたはきっとあたたかいんだろうね。……わかんないけど」
フランが名残惜しそうに身を離した。簡素な侍女服が翻る。
そうだ、わたし達も仕事をしなければ。おそらくはこの屋敷での最後の仕事を。
「ヘンなこと言っちゃったけど、ヒミツにしてね」
フランは笑っていたが、わたしは思わず顔を反らした。無理した笑顔は見たくなかったからだ。
「あたし、いまさら聞きたくなかったんだ。『アイしていた』なんて」
――ああ、やっぱり。
フランとご主人様の関係は明確にはされていなかったが、次の瞬間、わたしは全てを理解した。
「おとうさま……」
目を伏せ、堪え切れずに漏れた呟き。彼女が死を悼んだのはこの一瞬だけだった。
そうしてフランは侍女としての職務を全うし、私物を売って金に変え、屋敷を出た。
「ここから少し歩いた所に、アルナーって町があるの。そこの男爵閣下には召し使いがいないと聞いたわ。だから今度はそこではたらかせてもらいましょう」
言葉に嘘はなかった。だが事情を全て説明しているわけでは無いというにおいがした。何かを隠す様な。
胸騒ぎがしたが、それを伝えるすべなどなかった。
だから代わりに、彼女に寄り添いながら祈った。
――どうかわたしの存在が、彼女のせめてもの慰めになればいい。
幼い容姿に孤独を抱え込んだ背中を守る。その為にわたしがいる。
――いつか、彼女が父親の最期の言葉を理解出来る日が来ます様に。
神ではなく、ただ、ふたりで共に生きる為の明日へと祈った。