真っ暗闇のなか。
何かから逃げる夢を見る。
ある時は別々に暮らしているはずの父親、ある時には見ず知らずの男……
いずれにせよ、その少年にとっては、
大人の男に追いかけられる、触れられる、というのは恐怖の対象で。
追いかけられている。
そう自覚した瞬間に逃げ出すのだが、逃げるその街中もおかしくて。
人が、いないのだ。
無人の空間。
真っ暗な、夜の町。
聞こえるのは自分の荒い息遣いと追いかけてくる相手の足音、呼吸。
怖くて、怖くて、でも足が疲れて、思わず止まって。
此処なら大丈夫、そう思って逃げ込んだ場所で……
その相手に、腕をつかまれる。
思いきり悲鳴をあげようとした、その瞬間に目をさます。
……此処のところ、そんな夢ばかりだった。
***
「はぁっ、はぁ……はぁ……」
何度目になるかわからない、悪夢からの目覚め。
浅緑の髪の彼……スターリンは小さく息を吐き出した。
ベッドの上に体を起こして、震える腕で掛け布団を抱き締めた。
そんなものを抱き締めたって何らプラスにはならないけれど、
とかく何かにすがりたくて。
まだ空気は薄寒いはずなのに、背中にはじっとりと嫌な汗が滲んでいた。
夢のなかで必死になって逃げていたからだろうか……そう、おもう。
これで何日目になるだろう、とスターリンは思った。
ここ数日、ゆっくり眠れていない。
何でこうなったのだろうと思い返すに、
数日前にちらと見てしまったドラマか何かが原因だろう、という結論に至った。
至って普通の家族モノではあったのだが、何やら訳アリの家庭らしく、
母親が厳しく子供を叱りつけていた。
その光景が、自身の過去にリンクしてしまったのだろう。
そう結論がついて、スターリンは苦笑を洩らした。
これくらいのことで怯えていたらきりがない。
そう思いつつも、記憶を消すことも恐怖心を消すことも出来ない。
半ば諦めたように、スターリンは溜め息を吐き出した。
そしてこれからどうしようかな、とすこし悩む。
眠いことは眠いし、体も疲れてはいるのだけれど、
まるで体が眠るのを拒否しているように、眠りにつけない。
眠ったらまたあの夢を見る、と漠然と思っているのだろう。
「仕方ない、な……」
スターリンは自分自身に言い聞かせようとするようにそう呟いた。
仕方がない、起きていよう。
勉強でもしていればいい。
ちょうどテスト前なのだし……
そう思いつつ、視線がいったのは自分の携帯電話だった。
そっとボタンを押せば、表示される待ち受け画面。
亜麻色の髪の少年と写る、自分の姿。
それを見て、スターリンはきゅっと眉を寄せた。
小さく、彼の名前を呼びかけて……小さく、首を振る。
今の時間が時間だ。
来て、など……言えない。
心細い時、怖い時に傍にいてほしいのが彼なのは間違いないけれど……
と、そのとき。
「っ!?」
不意に、携帯が震えた。
着信を告げる、長いバイブレーション。
スターリンはえ、と思わず声を洩らす。
画面に表示された発信者の名前は、他でもない……
たった今、スターリンが思い浮かべていた彼の名前で。
スターリンはおずおずと携帯を手にとった。
「……もしもし」
『……やっぱり、起きてたんだね』
電話口から聞こえたのは、そんな声……フォルの、声。
「フォル……?どうしたのだよ、こんな時間に……」
『君が、起きてるんじゃないかなってね』
「は……?」
意味がわからない、という声をスターリンがあげるとフォルは小さく溜め息を吐いた。
そして、すこし悩むような間を開けて、口を開く。
『怖い夢でも見るの?』
「っ!?ど、して……」
どうして、どうしてわかったんだ。
そんな声をスターリンは洩らす。
フォルはそれを聞いて小さく笑ったようだった。
『半分は直感。……書記長様、ここのところ寝不足っぽかったから。
もしかしたらって思ってね。
もしそうならこの時間に電話しても出るんじゃないかな、って思ってさ。
……当たり?』
「……あぁ」
当たりなのだよ、とスターリンは力なく答えた。
フォルはふ、と息を吐く。
そして、黙り込んだスターリンに言った。
『ねぇ、書記長様……今から着替えて、外に出てこれる?』
「え……」
『僕、今君の家の前にいるんだよね』
そんな驚くべき言葉にスターリンは弾かれたように窓の方へいく。
窓を開けて下を見れば、確かに手を振っている彼。
「な、何してるのだよ……!」
『もし僕の仮定が当たりなら、君を慰めたいと思ってさ。
……ほら、明日はお休みだしさ?』
ちょっとお散歩しよ、とフォルは明るい声で言う。
スターリンはすこし躊躇う表情を浮かべた。
お散歩、といったって……
もう既に時刻は深夜を回っている。
高校生がそんな時間にうろうろしていたら補導されかねない。
でも……
『ほんのちょっとだけ。君の気分が落ち着くまで……ね?』
そう言う、フォルの声は優しくて。
「……わかった」
スターリンはそう返事をすると、電話を切った。
そして、適当に服を着ると、部屋を出て、既に外にいるフォルの元へ走った。
***
「あーあー……もう少し暖かい格好しないと、風邪引いちゃうよ?」
下で待っていたフォルのところにスターリンが辿り着いた時のフォルの第一声。
すこし顔をしかめてそういったフォルの声に、スターリンは自分の格好を見る。
確かにすこし薄着だ。
フォルは溜め息を吐くと、コートを脱いでスターリンにかけた。
スターリンは驚いて琥珀色の瞳を見開く。
「え、ちょ……」
「着てて。風邪引いちゃうよ?」
「……フォルの方が寒がりだろ」
スターリンはそう言う。
フォルは寒いのが苦手で、基本的に上着を脱がない。
邪魔にならないのかと訊ねても、寒いよりはましだと返事が返ってくるくらいだ。
スターリンは今のところそこまで寒いとも思わない。
だから、上着を返そうと思ったのだが、フォルはそれを止める。
にこりと微笑んで、彼はいった。
「いいの。内側に着てるのも割りと暖かい奴だから、大丈夫。……さ、いこう?」
フォルはそう言うと、スターリンの手をそっと握った。
優しく、暖かい掌。
それをスターリンはおずおずと握り返す。
「いく、って……何処に?」
スターリンは問いかけた。
こうして外に出てきたのは良いが、目的地などありはしない。
こんな、真夜中の街中……何処にいこうというのだろう?
スターリンのそんな表情に、フォルは微笑んだまま答えた。
「気の向くまま、適当に。……眠くなったら、帰ればいいよ」
「ノープラン……」
「ふふ、その通り」
「相変わらずなのだよ……」
スターリンが呆れたように肩を竦めると、フォルはくすくすと笑って歩き出す。
スターリンはそれにくっついて、一緒に歩き出した。
***
フォルとスターリンは一緒に夜の町を歩いた。
フォルはいつもの帰り道のような、いつも通りの話題を振ってくる。
スターリンもそれにいつものように答えていた。
いつもとすこし違うのは、二人ともすこし声のトーンを抑えていること。
当然だろう、夜の街は静か過ぎる。
会話が途切れた隙に、スターリンは顔をあげて街を見た。
静かな、静かな、夜の街。
流石にほとんど人影はなく、とても静かだ。
それが、先程まで見ていた夢を彷彿させる。
誰もいない、無人の街を逃げる夢。
追いかけてくる人間はいないけれど……
この静けさは、不安は、確かに夢と被っていた。
スターリンがそう、思っていれば。
「書記長様?」
不意に、フォルに呼ばれてスターリンの肩が跳ねた。
サファイアブルーの瞳がまっすぐにスターリンを見つめている。
「っ、何……?」
「怖い?」
顔を覗き込んできたフォルは唐突にそう訊ねた。
驚いて固まるスターリンにもう一度、"怖いの?"と問いかける。
「……な、んで?」
「君の表情。あと、震えてるし……息も速い。
……こんな、夢だったりした?見た、怖い夢が」
フォルの問いかけに、スターリンはうつ向く。
それが、答えだった。
どういう訳か、こういう時のフォルはかなり鋭い。
そう思いつつスターリンは俯いたままでいた。
フォルはふっと息を吐き出すと……
そっと、スターリンの体を抱き締めた。
怯えたように一度跳ねた彼の体を宥めるように撫でながら、"大丈夫だよ"と囁く。
「……どんな、夢だったの?」
優しい声で、フォルは問いかけてきた。
スターリンはすこし迷ってから、口を開く。
「誰も、いない街を……逃げる、夢」
「逃げる?誰から?」
「わから、ない……いろんな、人……
助けて、ほしくて、でも誰も、いなくて……」
すこし苦しそうになった呼吸に、フォルは"もういいよ"と彼に囁いた。
無理に語らせることはない。
そして、優しく背中を擦ってやる。
スターリンの口から嗚咽が漏れた。
こぼれた涙が、フォルの肩口に落ちる。
震える体を抱き締めながら、フォルはすまなそうにいった。
「そっか……ごめんね、こういう空間は怖かったか」
「大丈夫……今は……フォルが、いるから」
だから平気だ、とスターリンは言う。
事実、だった。
フォルがいるから、そこまでの恐怖はなかった。
こうして、ずっと手を握っていてくれたから。
大丈夫だと思えた。
……独りじゃないと。
スターリンがそう言うと、フォルは一時大きく目を見開いた。
そして穏やかに微笑んで、スターリンを抱き締める腕に力を込める。
「……ん、大丈夫だよ。
僕は、ずっと傍にいるよ書記長様……」
大丈夫、大丈夫。
何度もそう囁く声に、スターリンの体から力が抜ける。
優しい声と、暖かい掌が心地よい。
安心できると、そう思った。
フォルは決して体格が良い方でもないし、
靴を履いている今はスターリンとさして背丈も変わらないのに……
不思議な、包容力があった。
くたり、倒れかかってくるスターリンの体。
フォルはそれを抱き止めて、微笑んだ。
「……眠くなってきた?」
こくり、とスターリンは頷く。
元々眠いことに違いはなかったが、今ならば落ち着いて眠れる気がした。
……フォルが、いるから。
フォルはそんな彼の返答に微笑んで、頷いた。
「そっか、じゃあ僕の家に帰ろう?」
「え……」
フォルの言葉に驚いて、スターリンは顔をあげた。
自分の家にじゃないのか、というように。
フォルはそれを見て"何を驚いているの?"と笑った。
「家に君を帰すと思う?一人きりの部屋に……返すわけ、ないでしょ?
一緒に寝るんだよ、書記長様」
決まりだからね、といってフォルはスターリンの手を握り、歩き出す。
やや強引なフォルだったが、スターリンはそれに合わせて歩いた。
そして、やや困惑したような声で言う。
「でも、それじゃ迷惑……」
「明日……正式に言えば、今日か。
もうお休みなんだからさ、いいじゃない。
寝坊したっていいんだから……二人で、ゆっくり一緒に寝よう?」
ね、と笑うフォル。
スターリンはそれをまじまじと見つめた。
ほっと出来る、優しい笑顔……
それを見つめていれば、自ずと頷いていた。
フォルはそれを見て、目を細める。
「ふふ……良い子。一緒に寝よう、大丈夫だから」
僕が守るよ、とそういって、フォルはスターリンの唇を塞いだ。
小さくこぼれる彼の吐息を聞きながら、何度も何度も口づける。
絶対に守るよ、というように……ーー
***
それからすこしして、二人はフォルの家にたどり着いていた。
フォルの家は案外近くにあって、すぐに辿り着いて……
ベッドの掛け布団を捲り、スターリンをその中に寝かせる。
そして、自分自身もその中に入った。
「一緒に寝るの、暖かいね」
「ん……」
フォルの言葉に、スターリンは半ば寝ぼけたように答える。
フォルはそれを聞いて、くすくすと笑った。
「お休み、書記長様……ずっと、こうしてだいててあげるからね」
フォルはそう言うと、既に意識をおと仕掛けているスターリンを抱き寄せる。
いつもならば恥ずかしそうに身を捩るところなのだが、
もう眠いのか、はたまた……夢のせいですこし甘えたになっているのか、
彼はおとなしく腕の中に収まる。
寧ろフォルの胸に顔を埋めて、小さく息を吐き出した。
フォルはそれを見て青い瞳を細めると、"大丈夫"と囁く。
そして、静かに寝息をたて始めた彼を抱き締めたまま、彼も目を閉じたのだった。
ーー 暖かな腕の中で。 ーー
(怖い、怖い夢。
それからでさえも僕が君を守るから)
(安心しきったように僕に身を委ねる君が愛しい。
大丈夫、大丈夫。君を脅かすものは僕が許さないよ)