―― あぁこれは拙いな、と直感的に理解した。
悪い足場で無理に跳んだのが拙かったか、相棒と魔獣の間に無理に入り込もうとしたのが拙かったか。
剣を先に前に出すべきだったか、とか魔術で援護するべきだっただろうか、とか。
問題点は幾らでも浮かぶが、それを分析する暇はない。
視界に映るのは凶悪な獣の牙と爪。
咄嗟に張った障壁は非常に粗末なもので、あっさりと破られて。
脆いガラスが砕け散ったような音が響く。
「シスト!」
驚愕に染まった叫び声は、すぐ傍で戦っていた相棒のものだ。
彼の姿を捉えることは出来なかったが、どうやら獣の攻撃は完全に自分の方を向いたために彼は無事なようだ。
良かった、と何処か他人事のように思った刹那、体を襲ったのは壮絶な痛みだった。
あの時、自分を庇ったかつての相棒も、こんな感じだったのだろうか。
冷静に、そんなことを考える。
痛いし、苦しい、けれど。
大切な存在を守れたのだという達成感だけは確かにあって。
―― 今度は間に合って良かった、なんて。
彼奴に聞かれたら怒られそうだ。
そんなことを考えつつ、シストは口元を緩めた。
刹那、背を強かに打ち付ける。
口の中に広がる血の味と呼吸が詰まるような感覚を最後に、意識が途切れた。
***
「シストさん、僕は怒っています」
目を覚ましたシストの前に居たのは、白髪の少年だった。
相棒の親友であり、シストにとっても大切な友人の一人である医療部隊の騎士は黄色の瞳が溶けてしまうのではないかと心配になるほど涙を零しながら、シストを睨みつけている。
怒っています、と言う言葉の通り、確かに彼の声には色濃い怒りが灯っている。
たじろぎながら視線を逸らすのが精一杯だった。
逃げ出そうにも、全身が痛くて寝返りさえ打てない。
「受け身すら取れない状況で魔獣に向かって斬りかかるなんて、命知らずどころの話じゃありません。炎豹の騎士だってそんな無茶そうそうしません。
魔力による自己防衛にだって限界があるんです、わかってますか」
涙目のまま、医者は現在の状況を説明する。
小さな切り傷擦り傷は数えようと到底思えない程ついている。
打撲も一か所じゃあすまない。
中でも一番大きかった傷は最後に獣に切り裂かれた腹だったと言う。
今は傷も塞がり出血もしていないようだが、少し身じろぎするだけで刺すように痛む訳だから、重傷だったというのは間違いない。
それを聞いたシストは一つ息を吐いて、掠れた声でといかけた。
「……フィアは?」
その問いかけに白髪の少年……アルは大きく目を見開いた。
その目がじとりとシストを睨みつける。
「馬鹿なんですかシストさんは」
どうやら言葉の選択を間違えたらしいことはシストにもよくわかったが、きかずにはいられなかった。
馬鹿なんですか、という少しずつ師に似てきた口調での暴言にも何を言い返すでもなくじっと見つめ返していれば、やがて諦めたようにアルは溜息を吐き出して、答えた。
「フィアも重傷です。魔獣を倒して、帰ってきました。命に別状はありませんが後で僕からお説教です」
今は別室で休んでいますよ、との言葉にシストは安堵の息を漏らす。
良かった、守ることが出来ていて。
そんなシストを見つめて、アルは深々と溜息を吐き出した。
そして、"ねぇ、シストさん"と呟くような声で呼びかけた。
「戦うということがどういうことかは、僕も理解しているつもりです。
任務が簡単なものばかりではないことも、皆が傷を負って帰ってくる可能性も……
朝笑顔で別れた友人が冷たくなって帰ってくる可能性だってあることは、理解しているつもりです」
その言葉にシストは息を呑む。
……そんな状況は、シストも痛いほど良く知っている。
当たり前のように続くと思っていた日々が思っていた以上にあっさりと壊れてしまうこと。
それは、良くわかっている。
騎士として生きる以上は致し方ない。
護衛の任務で護衛対象を守って怪我をすることも、魔獣との戦闘で傷を負うことも避けられない事態だ。
それが原因で命を落とす可能性だって十二分にあるのだ。
比較的平和であるとされているこの国でも、騎士は命を懸けた仕事であることは違いない。
それはわかっている、と医療部隊の騎士のアルも言う。
怪我をするなと言うのが無理な話であることはわかっている、と。
けれど、と彼は言葉を続けた。
「……極力怪我をしてほしくないのは勿論、冷たくなった大切な人たちを見るのは嫌なんです。そんな想いは、したくないんです。考えるだけで、胸が痛いんです」
そう言いながらアルはぎゅ、と白衣の胸元を握った。
その手が微かに震えていた。
「それに、大切な人を亡くした人たちの心だって、痛いんです。
いつも、エルドさんのことを思い出すシストさんの心は、ご両親のことを思い出しているときのフィアの心は、"痛い"から」
アルには特別な力がある。
近くにいる、大切な人たちの感情を感じ取ってしまう能力。
悲しみ、苦しみ、痛み。
感じ取り、共感し、寄り添うことが出来る優しい魔術医は瞳を涙に潤ませながら、言葉を続けた。
「僕は大切な人を亡くした経験がありません。
幸いなことに僕が共に任務に赴くことが多いアネットさんは無茶こそしますが元気ですし、両親も健在です。
……だからきっと、本当の意味でシストさんやフィアの心の痛みを理解することは出来ないと思います」
相棒を亡くしたシスト。
両親を亡くしたフィア。
彼らの心の痛みを本当の意味で理解することは出来ない、とアルは言う。
それで良いんだ、とシストは言おうとした。
寝たまま口を開こうとするシストの唇にそっと指先を当てて、アルは緩く首を振った。
「理解、させないでください。そんな痛みを」
大きく見開かれるシストのアメジスト色の瞳。
それを見つめながら、アルは泣き笑いの表情で言った。
「此処で、お城で、皆の無事を願っている存在があることを、どうか忘れないでください」
勇ましく戦う皆のことは恰好良いと思っている。
怪我をして帰ってきたら精一杯癒す。
けれどどうか、"失う辛さ"を教えないでほしいと、彼は願う。
無事を願っている仲間が居ることを忘れないでほしいのだと。
その言葉で、シストは理解する。
自分がいつも心のどこかで"仲間を守って死ねるならそれで良い"と思ってしまっていることを見透かされているのだな、と。
「……ごめん」
そう詫びるのが精いっぱいだった。
その言葉にアルはふ、と笑みを零す。
色の白い頬にまた一粒、涙が零れ落ちていった。
―― 理解できない痛みがある ――
(理解できない。寄り添うことなんてできない)
(どうか、どうか。理解なんてさせないで。
僕はずっと、大切な人たちの笑顔を見ていたいんです)
***
「目が覚めたか、馬鹿」
目を覚ましたフィアの眼前に居たのは不機嫌そうに顔を顰めた部隊長だった。
鮮やかなルビー色の瞳には強い怒りと呆れの色が灯っている。
それを見つめ返したフィアはゆっくりと瞬き、口を開いた。
「……その台詞はシストに言ってほしいものだが」
「彼奴にも言うさ、後でな」
そう言って溜息を吐き出した部隊長……ルカはフィアの額を小突いた。
痛い、と抗議の声を上げるフィアを見てもう一度溜息を吐いた彼は、呟くように言った。
「無茶しやがって」
呆れと安堵の灯った声。
それを聞いてフィアは一つ、息を吐く。
「……無茶をしなければ俺もシストも死んでいた」
無茶をした自覚はある。
相棒であるシストが自分を庇い、獣に斬り飛ばされてから、フィアは一人で彼を庇いながら戦うこととなった。
シストの傷の程度を確認しようにも魔獣と斬り合いながらでは到底無理だったし、二人がかりでも手こずった魔獣を一人で倒すというのはなかなかに無謀だったように思う。
しかしシストが庇ってくれなければあの時倒れていたのは間違いなく自分だっただろう。
此処で自分まで死んだらきっと二人揃ってこの魔獣の餌になるだけだ、とフィアは死に物狂いで戦った。
喰いつかれ、牙で手足を裂かれながらも何とか魔獣を倒し、倒れ伏したままの相棒を抱き上げたとき、微かにとはいえ息があることに相当安堵した。
絶対に死なせない。
そんな想いで、フィアはシストを抱き上げた。
華奢とはいえ自分より背丈のある、しかも意識のない彼を手負いの身体で抱き上げるのは相当辛いものだったが、このまま彼が死ぬことを考えるのに比べればどうと言うこともなかった。
そしてフィアは自身の持つ魔力をフルに使ってあまり得意とは言えない空間移動の魔術を発動させ、何とか城に帰還すると同時に意識を手放したのだった。
傷の深さや出血の多さも当然原因の一つだが、フィアが倒れた一番大きな理由は魔力の過剰消費だったというのは彼を診察した医療部隊長の言だ。
曰く、無意識にかフィアが持つ特殊な魔力……天使の魔力を用いて、シストの傷を塞ごうとしていたのだとか。
フィアは正直あまり治癒術が得意な方ではないが、特殊な天使の魔力は多少使うだけでも治癒の能力を発揮するらしい。
シストの傷が比較的早く塞がったのもきっとその影響だろうと医療部隊長はやや呆れたように言っていた。
―― その影響でフィアは意識を無くしているようですけどね。
……と。
「そういう問題じゃなくてな」
わかっている、フィアが無茶をしなければシストが命を落としていたことは。
けれど、言いたいことはそういうことじゃあない、とルカは言う。
不服そうに眉を寄せるフィアを見つめて、彼はふっと表情を緩めた。
「お前ら、本当に相性が良いんだよな、馬鹿みたいに」
「だから相棒同士な訳だが」
何を当たり前のことを、と言いたげにフィアは唇を尖らせる。
ルカは溜息を一つ吐き出した。
「死にかけてなお減らない口はこれか」
そう言いながらルカはフィアの唇をつまむ。
「お前らは良く似てるんだよ。相手を守りたい、っていう想いが他より強い。
それは悪いことじゃあないけれど……どっちもどっちで死にたがりなのは悪いな」
そう言ってフィアの唇から手を離すルカは酷く悲し気な顔をしている。
それを見つめたフィアは視線を揺るがせる。
「……死にたがってなんて」
「自分は良いから、なんて思う奴は立派な死にたがりだ」
きっぱりとそう言われて、フィアは口を噤んだ。
……確かにルカの言う通りのことを考えた。
自分は死んでも良いからシストだけは、と思っていたことは否定できない。
そしてきっとシストも同じようなことを考えて自分を庇ったのだろうということは嫌でも想像がついて。
「わかったら反省しろよな、馬鹿」
自分は死んでも良いから、なんて思わないでほしい。
そう言ったルカはやや乱暴にフィアの頭を撫でた。
「ちゃんと、生きて帰ってこい」
そう言いながらルカは笑う。
その言葉にフィアは何を言い返すこともできず、小さく頷いたのだった。
―― 死ぬなではなく生きろと言う ――
(簡単なことではないだろう。だけどな)
(自ら諦めるのは違うだろう?
ちゃんと、帰ってきたいってそう思っていてほしいんだ)
***
大切な存在を作るのが怖かった。
大切なものを守りたくて騎士になったのに、矛盾していると思われるかもしれないけれど……
大切だと思ったものを失うのが怖くて仕方がなかったのだ。
だから、あまり積極的に他人と関わるようなことをしなかった。
勿論任務に私情は持ち込まない、上手くやる心づもりでいた。
……いた、けれど。
気が付いたら、大切な存在はたくさん出来ていた。
こんなつもりではなかった、と言ったら怒られてしまうかもしれないけれど、本当にそんなつもりはなかったのだ。
友人なんてできると思っていなかった。
仲間と言ってもこんな風に親しくなると思っていなかった。
……そんな存在が沢山出来るなんて、思っていなかった。
漸くベッドから下りることを許されたフィアはゆっくりと城の中を散歩していた。
すれ違う騎士たちに"もう平気なのか?"とか、"あんまり無茶をするなよ"と声をかけられて、むずがゆいような感覚に包まれる。
まだ他の騎士たちは任務や訓練をしている時間帯だ。
城の中をうろうろしている者は決して多くない。
と、中庭に差し掛かったところで見つけた影に、フィアはゆっくりと歩み寄った。
「シスト」
声をかければ、中庭を眺めていたらしい彼は少し驚いたように顔を上げた。
そして声の主がフィアだとわかるとふっと笑って、ひらりと手を振る。
「フィア、もう傷は良いのか?」
どう見てもシストの方が重傷なのに、と思いながらフィアは眉を寄せた。
もうフィアは目に見える傷と言えば頬に残るガーゼに覆われた擦り傷程度のものだ。
シストは正直まだ顔色が良いとは言い難いし、フィアの声に顔を上げた時にも少し顔を顰めていた。
まだ腹部の傷は治り切っていないのだろう。
それなのに自分(フィア)の心配をするとは相変わらずのお人好しだな、と思いながらフィアは応じた。
「怪我は大したことがなかったからな、俺は。お前の方こそ、大丈夫か?」
「大丈夫大丈夫。お前のお蔭だよ、ありがとう」
そう言って笑って見せるシスト。
フィアはその言葉にまた眉を寄せて、呟くように言った。
「俺は大して何もしてないが」
「はは、言うと思った」
小さく笑うシストの横に、フィアは腰を下ろす。
そして、一つ溜息を吐き出してから、言った。
「そもそも、お前が俺を庇ってくれなければ俺が死んでいたかもしれない」
そう言われて、シストは笑みを引っ込める。
「ああするしかない、ってあの時は思ったんだ。ごめんな、逆にお前に大変な想いをさせた」
すまなそうに眉を下げるシスト。
それを聞いたフィアは驚いて、サファイアの瞳を大きく見開いた。
「そうじゃない、そうじゃなくて」
謝らせたかった訳ではない。
感謝したかっただけだ。
そもそもの話、今自分がその話題を出したのは彼にもっと自分を大切にしてほしいと伝えたかったからで……
口答えをする自分に呆れた顔をしたルカもきっとこんな気持ちだったのだろうな。
そう思いながら、フィアは言葉を選ぶように一度目を伏せる。
それから、一つ息を吐き出して、言った。
「お前も、お前自身をもっと、大切にしてくれないか」
結局、恰好良い言葉など一つも思い浮かばなくて、ストレートに伝える。
ぱちりと瞬くアメジストの瞳を見つめて、フィアは言葉を続けた。
「二人揃って死にたがりだってルカに説教された」
その言葉にシストは目を丸くする。
それからふっと苦笑を漏らし、頷いた。
「あぁ、俺もだよ」
「あとアルに泣かれた」
「それも同じだ」
はは、と笑ったシストは視線を中庭に投げる。
訓練の休憩中らしいまだ幼い騎士たちが楽しそうに笑い合っている。
その姿を見つめたシストはそっと目を細めて、呟くように言った。
「大切なものを守るために、強くならないといけないな」
そう呟き、シストは強く拳を握る。
そんな彼の横顔を見つめて、フィアはそっと溜息を吐き出した。
「その"大切なもの"に、自分も入れてくれと言う話だ」
「全く同じこと、俺も言って良いか?」
シストは苦笑混じりにそう言って肩を竦める。
そんな彼の姿を見て、フィアはそっと目を細めた。
―― あぁ大切だ、と思った。
仲間も、友人も、家族も。
そんな彼らを、大切にしたい、守りたいとフィアは強く思う。
絶対に壊させない。
手放しはしない。
そう、強く願いながら、フィアはそっと自身の手を握る。
「……大丈夫か?痛むか?」
そんな心配そうな声を上げるシストを見て、フィアはゆっくりと首を振る。
そして、小さく溜息を吐きながらその脇腹を軽く小突いた。
「痛っ!?」
悲鳴のような声を上げて、シストは涙目でフィアを睨みつける。
無論大して強くは小突いていないし、傷の部分は避けた。
それでも痛いものは痛い、と抗議の視線を送るシストを見て、フィアは表情を緩めた。
「それは俺の台詞だ。あまり無理をせずに部屋に戻れよ」
フィアはそう言って笑う。
シストはそれを聞いてゆっくり瞬いた後、小さく笑って頷いたのだった。
―― 天使が抱く宝石 ――
(いつの間にか手に入れてしまっていた大切な宝物)
(もう二度と奪われないように、壊されないように守らなければ。
そう強く強く誓ったんだ)