思ったより帰りが遅くなってしまった。
そう思いながら、紫髪の青年はそっと溜息を吐き出す。
こんな時刻まで仕事をして帰るのは久しぶりだ。
最近は凶悪事件も少ないし、騎士団からの依頼もあまりない。
どちらかといえば自分達の組織の書類の整理がほとんどで……それ故に遅くなった。
仕事はできるはずなのに何かと問題児な自分の部隊の部下が原因である。
明日また説教だな……と思いつつ、彼はそっと空を見上げた。
すっかり冷えた空気の中で見る星や月は美しい。
今日の月はまるで血を吸ったような赤さで、ほんの少しだけ恐怖心を抱く。
昔はそれを呪いだのなんだのと騒いだらしいが……今はただの見え方なのも理解している。
けれどやはり不気味なものは不気味だな、と苦笑を漏らし、彼は少し歩く速度を早めた。
冷えるし早く帰らないと風邪をひく。
何よりあまり遅くなると、同居人たちが心配する。
お前は決して強くはないのだから、と恋人に真顔で説教されるのは流石に気恥ずかしいし悲しいから避けたいものだ。
尤も、彼が本気で自分を心配してくれていることも、何かあれば必ず助けてくれることも理解しているのだけれど。
夕飯の支度はしてきたし、もうそれを食べて休む準備をしている頃だろうか。
もうすぐ日付も変わってしまう。
今日は自分も家に帰ったらさっさと休もう。
明日は休みだしのんびりと過ごそう。
そんなことを考えながら歩みを進めていた青年……ラヴェントの視線は、街の一角に止まった。
そこにあるのは、新しくできたという小さな店だった。
何でも少し珍しい、大陸の東方の茶を扱う店なのだとか、そういう店が好きな同期の警官が嬉しそうに話していた。
また立ち寄ろう、と考えながらも、最近は仕事が遅くまでかかることが多く、まだ足を運べたいない。
当然、その店はもう閉店済みなようで静かだ。
しかしその建物の前に人影がある。
背の高い青年のようだった。
月明かりによく映える銀の髪が風に緩く揺れている。
それだけならば決して、目を止めることはない。
目を引くのは、その青年が大きな人形を抱えていること、だった。
少女の人形だ。
青年によく似た銀髪の少女。
それを腕に抱いている青年は月を見上げていた。
時折、人形に話しかけながら。
と、そこで気がついた。
ラヴェントが少女の"人形"だと思ったのは、彼女が身じろぎをしないからだった。
人間というものは眠っていても意識をなくしている時さえそれなりの動きをするものなのだが、青年の腕の中にあるそれはそんな動きをしなかった。
しかし、じっと見ていて気づいた。
人間らしい動きをしてはいないものの、それは……
「人形……じゃない」
小さく、言葉がこぼれた。
その刹那、少女の顔がラヴェントの方を向いた。
異様だった。
変わった帽子の額のあたりには異国の文字で何かが書かれており、吹き抜ける風にそれが揺れる。
開いた瞳に見据えられた刹那、理解する。
彼女が纏う気配は間違いなく、人間のそれではないと。
ひゅ、と息を飲んだ。
次の瞬間。
「晩上好(こんばんは)おにーさん、この国の警察官、だよね?」
目の前にいたはずの青年は、ラヴェントの後ろに回り込んでいた。
首筋に冷たい金属が当たる気配を感じる。
凄まじい敵意、殺意。
それを感じとり、ラヴェントはそろそろと両手を上げる。
すぐさま殺さないあたり何とか会話はできる……と信じたい。
「その通りだ」
そうラヴェントが応える。
青年がふう、と息を吐いたのが気配でわかる。
「参ったな、妹の姿をあまり見られたくないし周囲の警戒は十分していたつもりだったんだけど」
緩んでたかなあ、と呟く声は呑気な風を装っているが……全く敵意は緩んでいない。
ラヴェントが少しでも妙な行動を取れば彼は容赦無く殺しにかかってくるだろう。
「夜の誰もいない街で一人で立っているものだから気になっただけだ。
……その子は、人間ではない、よな」
ラヴェントがそういうと同時、空気が張り詰めたのがわかった。
「だったら?」
声が冷たい。
首筋に当てられた金属が少し食い込んで痛みが走った。
「警官なら何か情報を持っているかと思ったけれど……残念だなぁ、のんびり聞き出す気が無くなっちゃったな」
残念残念、と呟く青年。
笑っているような声だが……その実全く笑っていないのは声だけで理解できる。
拙い、と思った。
地雷を踏んだ気がする。
彼が抱えていた彼女……妹を大切にしていることは先刻からの反応でわかっていたつもりだったのだが、不用意な発言をしてしまった。
「待ってくれ」
必死に頭を回転させて、言葉を紡ぐ。
彼は"警官ならば情報を持っているはず"などと言っていた。
自分をすぐに殺さなかったのもきっと何か理由があるはずだ。
戦闘で敵わないなら取引をするほかない。
何より……自分とさして歳も変わらなさそうな青年に人殺し、それも警官殺しなどという罪を背負わせたくなくて、ラヴェントは必死だった。
「たしかに驚いた、お前の妹にも失礼な反応だったかもしれない。それは詫びる」
きっと彼の逆鱗はそこだった、と推測してラヴェントは詫びる。
軽んじるつもりも差別するつもりもなかったがそう聞こえても仕方がなかったと、そう思って。
「でも、別に俺はお前をどうこうしようとも、お前の妹をどうにかしようとも思わない。
そもそも俺は何でお前が他の人間に妹を見せたくないのかも、俺からどんな情報を聞きたいのかもわからない。
俺にとってお前は女の子を抱えて立ってただけの一般人だしな」
現状はそうも言っていられないわけだけれど、という言葉は飲み込んで、ラヴェントは続ける。
「特殊な存在にはいい加減に慣れてきたところだ、そもそもうちには吸血鬼もいる」
事実、人間ではないという理由で排斥しなければならないのだとしたら、ラヴェントが友人だと思っている相手数人とも縁を切らなければならない。
なんなら恋人である彼も普通の人間ではないのだから離れなければならないだろう。
そんなことを思って、肩を竦める。
青年の気配が少しだけ緩んだ。
あくまでも訝しむ風ではあるけれど、今すぐ自分を殺そうという意図はないようだ。
そのことに多少安堵しながら、ラヴェントは言葉を紡いだ。
「だが、俺を殺そうというのなら、俺も対応しなければならない。
俺は殺される訳にはいかないし、俺を殺した後お前がどんな動きをするかもわからないからな」
他の人間を傷つけるかもしれないし、とラヴェントはいう。
後ろにいる青年は小さく笑ったようだった。
「勝ち目がなくても?」
「勝ち目がなくてもだ」
迷わず答えるラヴェント。
青年はしばし沈黙した後……彼の首に突きつけていた金属、基武器を離した。
「はは、面白いねー」
すっかり敵意の消えた声で青年はいう。
一つ息を吐いたラヴェントは振り向いて、改めて青年たちの方を見た。
ニコニコと笑っている青年は、先程までの大きな猛獣を相手にしているかのような雰囲気をすっかり消している。
腕に抱いている少女……妹を慈しむように微笑む姿は穏やかそのものだ。
少女はといえば、人間ではない気配を纏っているものの、敵意は見えない。……むしろ感情らしいものも見えはしないけれど。
「この国に来たからずっと思っていたけれど気を張っているのが馬鹿らしくなってくるくらいだねー、キミたちの性質は」
「は……」
どういうことだ、とラヴェントは問いかける。
青年はそっと妹の髪を撫で付けながら、答えた。
「みんなお人好しだなーって思ってさ。
さっきだって、簡単な話じゃない?我は妹(このこ)を抱えてる。
警官だっていうならそれなりに戦えるでしょ?
この子を人質に取るなりなんなりすれば我を制圧することも簡単だろうにさー」
青年は今の状況……妹を抱えたままでは普段の戦闘能力の半分も出せないのだ、と言った。
自分の足で立たない妹をいきなり手放すつもりはなかったし、自分が離せば彼女を狙われる可能性も大いにあった。
だから手放せず……故に戦いにくかったあの状況だ。
ラヴェントが武器を複数持っているのはわかっていたし、場合によっては逃走も考えていた、と青年はいう。
ラヴェントはそれを聞くと、火傷を漏らして肩をすくめた。
「生憎俺はそんなに強くないし、何より……」
「何より?」
「……そんな卑怯な真似はしたくなかった」
ラヴェントがそういうと、青年は目を見開いた。
鮮やかな金色の瞳が月明かりに煌めく。
「卑怯、卑怯か、なるほど。確かに、意志の薄そうな女の子を攻撃するのは正義の味方としてはおかしいよね」
さすがお巡りさんだ、と彼は笑う。
そして、ふっと息を吐き出し、いった。
「ま、尤も……」
そう言いながら青年は少女に何やら囁く。
と、少女がぴょんと地面に立った。
……否、正式にいえば、地面からわずかに離れた形で浮いている。
そのまま彼女はラヴェントに札を突きつける。
その札が纏う魔力は相当強いもので……思わず一歩下がったラヴェントを見て青年は言った。
「この子も戦えるんだけどね?」
そう言って悪戯っぽく笑う青年。
……つまり、仮に妹を狙っていたところで勝ち目はなかった訳だ。
「何でもありだな……」
そういってラヴェントは溜息を吐き出す。
そんな彼を見て小さく笑った青年は、いった。
「いいよ、取引をしよう。今はキミを殺さない。
妹を見て驚きはしても排斥しようとしなかったキミとならお話ができるかもしれない」
我もそろそろ手詰まりだったから手がかりが欲しかったんだ、と彼はいう。
「手がかり?」
ラヴェントがそう返すと青年は小さく頷いた。
「そう。この子を……妹を殺した犯人を、我は探しているんだ」
その手がかりが欲しい、と呟く彼の声を聞き、ラヴェントは目を見開く。
……何か理由があるだろうとは思っていたが、想像したよりだいぶ根深い問題かもしれない。
そう思いながら、ラヴェントは口を開く。
「……俺で役に立てるかは、わからないけど」
「いいよ、これから情報を探してくれるかもしれないし?
まぁ……我らが動きにくくなるようなことをしたらすぐに殺すからそのつもりで」
「物騒だな」
青年の言葉にラヴェントは苦笑する。
そしてもう一度空を見上げながら、もう少し帰りは遅くなってしまいそうだな、と考えたのだった。
ーー 月下の出会い ーー
(この国の人々が相当なお人好しなのは察していたけれど。
まぁ、それもありがたい話ではあるのだけどね)
(剥き出しの殺意は、迷いない怒りは…
全て全て、その妹のためなのだろうか?)