とてつもなく大きな力で捩じ伏せられる心地がした。善悪の区別よりも恐怖感が先行した。目前の薄ら笑いが脳裏に焼き付いて離れない。
「もっとこっちへ来て」
放課後たっぷりと勉強をした後に、帰ろうと一人廊下を歩いていた僕に声を掛けたのはまだ若い先生だった。本当のところ、僕には彼がなんの科目の担当教官かも分かっていなかった。用事があると言って化学第二準備室に連れて来られ、強引に僕とハグをした。
「どうしたの、先生が怖い?」
「……」
「なんで基礎化学を履修しなかったの?」
先生は僕を持ち上げ教官用の大きな机に座らせると腕や脚をさすった。抵抗してはいけない気がしたけれど、その手の動きは気持ち悪くて恐怖を掻き立て僕を混乱させる。
「どうしてなのか、言って」
「……」
「ノイ、先生に怒られたくないでしょう?」
「……」
何か言いたくても声が出なかった。
だいたい僕は、この人の名前すら知らないのだ。
「せんせ、……だれ?」
そう言った途端に先生は表情を変え僕を机から床に引きずり落とし、僕のズボンを下ろして強く尻を叩いた。その時に漸く嫌だと言って抵抗したけれど、口に近くにあった雑巾を詰められて何も言えなくなってしまった。
何度も叩かれて尻がひどく痛むようになって、やっと先生はその手を止めた。
「お仕置きだよ。お前が悪い子だからいけないんだよ」
叩いて熱くなった手でゆっくりと先生は尻を撫でた。でもその感覚はあまりなくて、泣きじゃくっている僕には口に何かを詰められていることの苦しさが強かった。
「そんなに泣くから顔が汚れてるね」
「……」
「大声を出さないって約束するなら、これを出してあげる」
「……」
「約束できる?」
「……」
「いい子だね」
「……」
「それで、お前は先生のことを知らないの?」
「……」
「マイヤーだよ。忘れたら、また怒るから」
先生の笑顔はピノのものに似ていると思った。作り物の笑顔。楽しくなかったけれど、僕は先生と一緒になって笑うしかなかった。
ズボンを下ろされたまま僕は基礎化学を仮既習していることを説明した。また怒られるかもしれないと思っていたけれど、先生は化学が好きなんだねと言って喜んでくれた。
「ノイ、また明日もここへ来てね」
「……」
「約束破ったら、お仕置きだからね?」
先生は次第にエスカレートしていった。
マイヤー先生は僕を見掛けるとにっこりと笑って手を振る。僕は同じように先生に返すけれど、どうしたってぎこちなくなるのだった。
「今日はどんなことがあった?」
「授業だけ」
「お友達とはどういう話をした?」
「……憶えてない」
準備室に入ると鍵を閉める。それは恐怖感を煽るのと同時に安心感を与える。誰かにこの姿を見られなくて済む。先生よりも僕は自分の方が悪いことをしているようで、今の状況を誰かに言うなんてできなかった。
制服を次々と脱がせ丸裸にすると先生は僕の身体を丹念に舐める。隅々まで舐めながら、おまけみたいな会話をする。
「授業で分からないところはある?」
「うん、あ、でもピノが教えてくれるから平気」
「なぜ先生に聞かないの」
「……」
「どうして黙るの」
先生が怒ったのが分かって、でもどう言えばその怒りが収まるのかは検討も付かなかった。ごめんなさいと言い切る前に僕は床に放り投げられ先生に教鞭で叩かれた。
教鞭は細くてしなるからすごく痛い。自分の手が痛くなるのが嫌になって、先生はお仕置きする時に物を使って叩くようになったに違いなかった。
「もうピノとは話しちゃ駄目だ」
「……」
「約束しなさい」
「……」
「約束しなさい!」
「できない!」
約束しても守れるとは思えなくて、でも約束しなくても同じように酷い目に合うことは分かった。どちらにしても同じなのだから僕は約束しようとは思えなかった。
先生が今までにないくらいに怒っていると気付いたのはその直後。
先生は僕を準備室の外、化学第一準備室、化学室まで蹴って押し出してからすべての鍵を閉め自分はさっさと廊下からどこかへ行こうとするのだった。僕は混乱しながら先生に縋り付いたけれど何も聞き入れてはくれなかった。
「そんな姿で、恥ずかしくないの?」
そう言って笑う先生と目が合ってから、僕は靴下だけの惨めな姿でいることに気付いた。
流石に先生と一緒に階段は降りられなかった。僕は化学室や化学準備室の廊下側のドアをすべて確認したけれどどれも開いてはくれなかった。恐怖や悲しみよりも誰かに見られてはいけないという思いがあって、一番近くのトイレへ入った。
僕は人がいるのも構わず個室に駆け込んだ。蛍光灯はくっきりと僕の姿を照らし出す。
「どうしたの」
「……」
「なんで服を着ていないの」
「……」
「誰かに取られたの?」
「……」
「大丈夫?」
ドア越しにでも、その人が僕を本当に心配していることが分かる。暫く一方的に話し掛けられた後に、その人はトイレを出て行ったようだった。
寒くて不安で僕は泣くこともできなかった。さっきの人に助けを求めなかったことの後悔はあったけれど、これまでのことが全て知られてしまうことの方が怖かった。これから先も同じようなことが繰り返されるのかと考えると陰鬱とした気分になる。
そして突然、ドアの上から服が落ちてきた。
「それ私の体育着だから。下着はないけど、そのまま着てください」
「……」
「もう校舎が閉まるから、それ着て帰ろうよ」
僕はその厚意に甘え掛けてから踏み留まった。
準備室に閉じ込められたことは何度もある。絶対に誰にも見付かってはいけないよと優しく囁いてから先生は僕を残してどこかへ消える。今回もそれと似たようなことなのだ。いつもより怒っていたけれど、多分結末は同じ。
先生が僕を迎えに来てくれる。
服を投げ入れてくれた人は僕の反応がないからか帰って行った。個室の床に散らばる役立たずの服を眺めて、その惨めさは僕に近いものがあると思った。
僕を助けるのは先生でなければならない。それ以外の誰でもいけない。先生だけが僕を救う。
「ノイ」
震える僕の肩を抱き寄せるのはいつも先生の温かく大きな身体なのだ。そうでなければもう安心できない。先生が体育着を踏み締めるのを見て、そう思った。
残酷なのは先生ではなく、見知らぬ優しい人の方。