嘘をついてはいけない
しかしながら
目に見え耳に聞こえる事実は
現実には程遠い
「あのー、砂漠は初めてですか」
ヒューストンの声はやはり若い。大戦のことを話した口振りから30歳以上だと思ったが、声だけならば10代の少年のようだった。
「ええ、初めてです。砂には本当に困りますね」
嘘だ。
兵器に対する規制調査の一環でここへも来たことがある。砂漠の観測所はここの他に4局あったが、そのうち3局に行った。
砂漠にテントを張って寝泊まりしたこともある。
「そうですよねー」
ヒューストンは困ったように笑った。
「ヒューストンさんは、ずっとこちらで生活を?」
「長くはないんですけどね。観測所が閉鎖になるってゆうんで、その片付けで派遣されたのが最初です。気付いたら取り残されて、いま一人でここに居るんですよ」
男が何を言ったのか、俺は理解できなかった。
『取り残されて』?
それが本当なら何故俺達に助けを求めない?
「はは、なるほど。それはご苦労されましたね」
何かの比喩表現だと解釈して俺は笑ってやった。ヒューストンも破顔した。
この男が分からない。
何かが食い違う。
ちぐはぐさ。
危険地観測所は、終戦を迎えてからは軍事利用が規制されて予算が付かず、殆んどが閉鎖を余儀なくされた。
ここも閉鎖したとばかり思っていたがこの男がここで暮らしているから本当のところがどうか分からなくなる。事実上は閉鎖しているのだろうが資料や設備はまだ管理されている。
閉鎖したのに働いている人間。
彼は一体誰なんだ?
動力設備が正常に運転していることが丸で異常なことのように、薄汚れた内装の上を清浄な冷風が撫でている。
何かが食い違う。
この男がメンテナンスしているのだろうか。研究所とは無関係なような顔をしているが、無関係な筈がないのは俺がよく知っている。こんな場所に施設を見付けるだけでも苦労するのに、この男は設備を利用して生活しているのだ。
ヒューストンはある扉の前で足を止めた。
「あの、こちらが居住区です」
「おじゃまします」
「水を用意しますね」
居住区は他の場所と色彩が変えられており多少は過ごしやすく工夫されている。壁紙が貼られて模様を作り、アンティークな家具は自然な木目調のもので、そして壁には額縁に収まった淡い色調の絵画が掛けられている。
ヒューストンは使い込まれた戸棚からガラスの容器を出して部屋の奥の方へ入って行った。
それを見送ってから俺はレルムを見る。
「何があったんだ」
俺が尋ねると、レルムは俺の目をじっと見返してから首を傾げた。加えて「なんのことですか」と答えた。外見では純真な子供のように見えるから問い質すのが悪い気がする。
そういう仕草、どこで覚えるんだろうな。
「叫び声が聞こえたから俺はここに来たんだ。叫んだのは本当にあの男か?」
「はい。叫んだのはヒューストンさんです」とレルムは言った。その声に戸惑いも怯えもないから俺にはその状況が少しも伝わってこない。
あんな声、普通じゃない。
それがレルムには分からない。
「僕の腕を掴んだんです」
「うん。それで?」
「それで、ヒューストンさんは叫んだんです」
「お前が何かしたのか」
「いいえ、何も」
そんな訳がない、とは言えなかった。
レルムが、『腕を触って叫んだ』と言うのならばそれは事実なのだろう。レルムも嘘は吐くが目的のない嘘は吐かない。人間に限りなく近いレルムの、それは超え難い人間との境界だった。
「何か分かったら、教えるんだよ」
俺が諭すように言うと、レルムは「分かったこと、あります」と答えた。
それが嘘ではないという確信がある。
でも俺はレルムの言葉が現実を表現するのに十分だとも思っていないから、レルムのことや表情から分かることよりもヒューストンの言動を思い起こした。初めて会った時、初めて話した時、ここまで案内する間、それがどんなだったか。
レルムが次の言葉を述べる前にヒューストンが現れた。
「お待たせしました」
ヒューストンは大きめのボトルに水をなみなみと入れて持って来た。少し重たそうに抱えるように持っている。そしてテーブルにグラスを二つ置いて、「どうぞ」と穏やかに勧めた。
この水は毒か?
きっと違う。
「レルム、飲むか?」
俺が尋ねるとレルムは首を横に振った。
「ありがとうございます。いただきます」と言って、俺はコップに水を注いで飲んだ。冷たくて臭みのない綺麗な水だった。
「資料なんですけど、見て行かれますか」
俺が水を飲むのを見てからヒューストンは小さな声で尋ねた。
小さな声。
心細い声。
ああ、そうか。
「はい。ぜひ」
俺が答えるのを聞いて、ヒューストンは「少し休んだらご案内します」と言って微笑んだ。
ああ、そうか。
俺はこの男にある違和感の原因に漸く気付いた。