※美形策士
葉狩は悪の化身だと友人は言った。
彼の言葉は悪の蜜。彼の口は悪の花。彼の指は悪の標。彼の瞳は悪の呼び水。あらゆる悪の愉悦で惑わし、あらゆる悪を僕とし、彼にかかれば法の番人でさえも垂涎して膝を折り喜んで彼に魂を抜かれると言う。
バカじゃん、とその時の私は一笑に付した。
【相碁井目】
葉狩と知り合ったのは、ある夏の日だった。暑くて堪らず、私はコンビニで買ったCCレモンで喉を潤していた。
「あれ、重里じゃん」
そう声を掛けられた私は、その時まだ彼の名前も知らなかった。
「何してんの?」
葉狩に言われた私は、彼が誰だかもわからず、きっと同じ学校の誰かに違いないとだけ思って、持ち前の八方美人でもって笑顔を見せた。
「暑くて。休んでました」
年上かもしれない、と思った私は、敬語を使う余裕さえあった。
「確かに今日はあちーよな。これからどっか行くの?」
「特に何もないですねー」
葉狩はそれを聞いてにっこり笑った。
たぶんあの時、私が忙しいと言ってその場を立ち去っても、何処かで彼には掴まる運命にあったのだと思う。友人に言わせると、それは避け難い『巧妙なる奇遇』によって。
私も今は、友人の言葉を信じる。
葉狩は悪の化身。
あらゆる悪の術が彼の手中にある。
「じゃあ、一泊目は長野で、二泊目は金沢ね」
なんでこうなった?
葉狩はニコニコ笑っている。そして私と旅行に行く計画を立てている。彼が余りにも当然みたいな顔で宿泊先を決めたから、私は文句も言えないでいる。
金沢は私の故郷であり、葉狩は両親に挨拶する積もりでいるらしい。
たぶん私はそれを断れない。
葉狩はにっこり笑って私を見た。
「風呂入る?」
「え?」
「俺ちょっと買い物してくるから、その間に入ってな」
葉狩はそう言ってベランダに出た。おそらくタバコを吸う為だ。
お風呂に入るってことは、泊まって行けよってことだよね。いつも流されてつい泊まっちゃうけど、私はその辺のことが分からない。分からないっていうのは、つまり、友達とは言え男の家に簡単に泊まっていいのか、ということが分からない。
これが女友達なら?
何も問題はない。勿論、そうだ。
だったら葉狩も同じかな?
私は、この部屋に2着常備されてしまっているパンツと、葉狩が貸してくれる部屋着を持って洗面所に行った。
なんでこんなことになるのだろうか。
お風呂にはお湯が張ってあるし、シャンプーとコンディショナーは私の好きな香りだし、洗顔と泡立て用のスポンジがあって、鏡は綺麗に磨いてある。私の望みを一歩も二歩も先を進んで叶えてくれる。
私は葉狩に抵抗できない。
今日は帰る、って言って部屋を出るだけのことなのに、葉狩がそれを許さない。
あの悪の化身が許さない。
葉狩は私とは違い過ぎる。私には使えない言葉を話す。私にはできないことをする。私には予測できないことを言う。私には止められないことをする。私の持っていないものを沢山持っている。
この違いは、たぶん、あれだ。
言いたくないんだけれども。
恋愛経験の差だ。
曰く、“相碁井目”。