「怖がらないで」、なんて言って未成年の子女に近付こうとする人間には総じて裏がある。しかし「黙れ」「動くな」とか言って脅迫するバイアスみたいなロリコンよりはましなのかもしれない。
「こんにちは。なんでこんなところに居るの?」
ジェイクはにこにこ笑って話し掛けてきた。
距離を取るべきだろうか。
私はジェイクから目を離さないように注意を払ってジェイクから遠ざかった。丸で忍者の忍び足のように静かに後退ることができたので自分でも感心した。
「お兄さんは、ここで働いているんだよ。だから怖がらないで。道に迷ったの?」
ジェイクは極めて友好的に話し掛けてきた。
うん、と頷きそうになる。
「迷子じゃないのかな。誰かと一緒にいたの?」
うん、と頷きそうになる。
「ゆっくりで、いいからね。知っていることがあったらお兄さんに教えてほしいな?」
ジェイクは花が咲いたように微笑んだ。
【笑顔の咲く花畑】
あのね、と話しそうになる。
なあに、と答えてくれる気がするから。
ジェイクはあっちの世界で例えるならば、爽やかな体操のお兄さんであり、頼りになる近所のお巡りさんであり、プレゼン能力の高いやり手の営業マンであり、笑顔の絶えない穏やかなパパなのであった。
私は押しに弱い。
智仁に言われると断れないのは今でも変わらない。ジェイクは少し智仁に似ていた。
「お腹すいてない?」
すいてるよ。
「ずっとここにいたの?」
さっき来たところだよ。
ジェイクが近付いても、もう私は後退らなかった。一歩、一歩と近付いて、もう腕を伸ばせば触れられるところでジェイクは止まった。にこにこ笑うから私も釣られて笑ってしまう。それは多分、智仁と私との距離に似ていた。
「お名前を、ぼくに教えて」
ぽん、と花が咲く。
「京香」
私が答えるとジェイクはもっと笑った。
ぽん、ぽん、ぽん、とふんわり咲いた花がそこら中に浮いて甘い香りを漂わせている。桃色、黄色、藤色、白色、ジェイクを彩るそれらが私には実体みたいに感じられる。
「京香。ぼくはジェイク。かわいい名前だね」
ジェイクは満面の笑みを湛えて頷いた。
あ。
笑顔が零れる、と私は思った。
「待ち合わせをしているの。だから心配しないで」
私が言うとジェイクは「そうかあ」と言った。
「この部屋に、って言われたの。だから大丈夫。仕事、続けて下さい」
「こんなところで待ち合わせなんて、珍しいんだね」
「そうですか」
「ぼくの、知ってるひと?」
ジェイクのそれは、彼が一番知りたい確信のような気がした。
私は黙った。
「ここで働いてる人だよね。どんな人?」
私はその場から逃げたくなった。
バイアスから、私達が知り合いであることを口止めされたことはない。でもそれは誰にでも言って良いことでもないだろう。
私はジェイクから逃げるべきだ。
尻尾を巻いて逃亡するでもしなければ、私はいつかジェイクに全てを話してしまう。
ジェイクの花は、ふわりと咲くから。
「ごめんなさい」
私は何故か謝って、それで何かを解決させる積もりは勿論なかったのだけれど、扉への直線距離上にいるジェイクを避けるように遠回りして扉に向かった。走ったら追い掛けられる気がして、競歩でもしているかのように脚だけを素早く回転させた。
バイアスの顔が脳裏を掠める。
藍色の目が私が見ている。
険しい山岳の峰のように、来る者を激しく拒絶して痛め付ける美しい瞳が、私を逃がさない。
ジェイクは悪い人じゃない。優しくて穏やかで居心地の好い人だ。私はもうジェイクを信頼してしまっている。
バイアスはジェイクとは違う。
バイアスは悪辣で冷酷で残虐な人間だ。
ジェイクと居た方が良いに決まっている。ジェイクは人を傷付けない。ジェイクは他人を思い遣ることのできる人だ。ジェイクは私を小さな子供として扱ってくれる。ジェイクは私が幼稚で純粋で無垢な子供だと思っている。
ジェイクは追って来なかった。
私は扉を開いて廊下に出た。もうそこは私の知っている世界とは全く異なってしまったような気がした。