池田さんは静かに笑って私の肩を叩いた。私の間違いや失敗に誰よりも早く気付いて指摘するのは池田さんで、その時はいつも今みたいに優しげに微笑んでいるのだ。
私は自分の失敗を予感して、思わず「すみません」と言った。
「まだ何も言っていないよ」
そう言って池田さんは破顔した。その笑顔は何故だかとても切なかった。
なんて哀しい顔をする人だろう。
「あ、すみません。思わず」
「このデータ去年のだけど、今年のは無いのかと思って」
池田さんは私の渡した決裁資料を持っていた。
「すみません! 気付きませんでした!」
私がこの数分で何度目かの謝罪をすると、池田さんはまた優しげに微笑むだけで立ち去った。
地下鉄は淡々と走るから好きだ。景色も駅も車輌も在り来たりなところが良い。
家に帰る電車の中はかなり混んでいても安心する。
「間も無く駅に到着致します。お出口は右側です」
車掌のアナウンスに座席の何人かが降りる準備を始めた。ドアが開くとホームに人が流れて行き、車内は少し空いてすっきりとした。
「ドアが閉まります」
アナウンスと共に警告音が鳴った。人が捌けたホームに見えたのは池田さんだった。池田さんは酷く疲れたようにホームにあるベンチに座っていた。
何しているのだろう。
電車が出発して駅を後にすると、池田さんはどんどん遠ざかったけれど、最後までぐったりと座り込んでいた。
別人かも知れない。そう思った。
翌日、池田さんはいつも通りだった。
「平田さんのところに行くんだけど、今日これから一緒に来れる?」
「はい」
「じゃあ11時頃に出るから、よろしくね」
その微笑みはやはりいつも通りの池田さんだ。優しくて、隙がなくて、作りものの主人公のように優秀だ。
電車の中で、私は昨夜のことを思い出し、思い切って尋ねてみることにした。池田さんは気さくな人なので、冗談やプライベートなことも話しやすい。話しに区切りが付いたところで切り出してみることにした。
「池田さんって、丸ノ内線使ってます?」
「そうだよ」
池田さんは微笑んで答えた。
「昨日、ホームのイスに座ってました?」
「え?」
「チラッとお見かけしたんです」
もしかすると人違いかも知れませんけれど、と付け足す必要はなさそうだった。
「恥ずかしいな。ちょっと休んでいたところを見られたんだね」
「すみません」
池田さんは謝ることじゃないよと言って苦笑いした。
それから暫くはホームのベンチで池田さんを見ることはなかった。ところが、私はまた今度は全く違う場所で池田さんが座り込んでいるのを見てしまった。やはり疲労感のある顔でぼーっとしていた。丸で別人のように。
それを池田さんに伝えることはしなかった。
池田さんは会社のヒーローだ。どんなに最悪だと思えるシチュエーションだって池田さんの手にかかると魔法に掛けられたかのように素晴らしいチャンスに変わる。偉大で華やかでとても優れたヒーロー。
ヒーローは静かに沈む。それは私だけが知っていれば良い。ヒーローである池田さんでさえ、そのことは知らなくて良いと思った。