不安と恐怖は朝やって来る。
私は朝起きると堪らなく不安になる。それは漠然とした、ぼんやりとした、曖昧で居所のない不安だ。
不安に支配される朝、恐怖に支配される朝、私は牡丹さんの「おはよう」という言葉を思い浮かべて、あやめの明るい笑顔を思い出す。あやめが私を呼ぶ声が聞こえる気がするのだ。
あやめが居てくれて良かった。
高校生活にはこれまで知らなかったことがたくさんある。初めて授業の予習をしたり、大学受験を意識したカリキュラムに関心したりもした。あやめのような友達ができて、陽平君とメールでやり取りもした。
けれども、それでも、私の高校生活がきらめくことはなかった。
私の高校生活は薄暗い。
私の高校生活を唯一明るくさせるもの、それがあやめだ。
学校の存在意義が私には重苦しくて、もしあやめがいなければ私はとうに学校を辞めていたに違いない。それは牡丹さんとの約束を破ることさえ厭わないくらいだっただろう。
あやめが居てくれて本当に良かった。
学校に居る間、私は時間が刻々と過ぎていくことの当然を再認識する。
時間は過ぎる。
時間は進む。
時間は止まらないし私を置いて行ったりしない。
私は、教室の壁に掛けられた古臭い時計の秒針が止まらず動くのを見て、早く全てが終わってしまえ、と心の底から願っている。家に帰る頃には私はおばあちゃんになっていて、一人でそっと息を引き取る。そういう妄想に取り憑かれている。
【春霞】
入学してから一週間、私はまだ一度も仮入部をしていなかった。ちょっとは考えたのだけれど、一歩踏み出せないでいる。
「今日はね、放送部に行くんだ!」
あやめが言った。それはおそらく「一緒にどう?」ということを意味しただろうけれど、私はどうしてもその気になれなかった。
仮入部が限られた期間にしかできないことは知っている。ゴールデンウィークまでには正式に入部届を提出する必要があるし、クラスメイトの何人かは既に入部届を提出していると聞いた。
焦りが無い訳ではない。
けれども心を突き動かして一歩踏み出すだけの高揚も得られない。
「いい部活だといいね」
私が答えるとあやめは幾分寂しそうな顔をしてから「ありがとう」と言って教室を出て行った。
私はカバンの中から生徒手帳を出した。
生徒手帳にはこの学校にある様々な部活動が列挙されている。あやめの言う放送部ももちろんある。
目を引くのは文学部。
あやめが『一番』と言っていた。運動はしなくていいだろうし、活動も少なそうだし、部員も多くないだろうし。もしあやめが文学部に入ってくれたら、私は彼女と一緒に過ごせる。
それなら。
他の部活よりはまし、かもしれない。
私はさっそく教室を出て文学部の活動に出ようと思った。思ったけれども、足は動かなかった。
「(活動場所はどこかしら?)」
私はとりあえず図書館に向かうことにした。
文学部といえば文学。文学といえば図書館。図書館へ行けば文学部の活動に近付ける可能性が僅かだろうけれども存在する。
図書館はたしか、向こうの方だ。
私は勘に任せて図書館に向かうことにした。
学校は閉塞的で閉ざされた小さな一つの社会だけれど、それで目当ての部活動に出会えるほど小さいものではないらしい。私は目の前にある図書館を見上げて自分の行動の無意味さを自覚した。
私はけっきょく、図書館で本を読んで、それだけで家に帰ることにした。
図書館には好きな作家の小説がたくさんあった。
最低な私の一日がそれで少しは良いものになっただろう。牡丹さんの家から一歩も外へ出なかった場合に、少しは近付けただろう。
金曜日の放課後、黄昏、世界は沈む。
地平の向こう、ビルの谷間、人間の列、白い月と赤い星、車のエンジン、言葉の海、霞んだ景色のその向こうに、世界は沈む。
そして淀みの中から何かが湧いてくる。
息苦しくて、切ない焦燥感と、無性に愛しい何か。
窓の向こうにそれがある。
消え去りたいのにそれができないことを思い知る朝に比べて、夕方の鬱屈には希望がある。何処かへ行けるような、本当に消えてしまえるような希望がある。
世界が消えて、私も消える。
私もこのまま、沈んでしまいたい、と思った時、肩を叩かれた。振り返ると藤瑚先輩がいた。冷たい目で私を見下ろしていた。
「こんにちは」
「あ、はい」
藤瑚先輩は「急にごめんね」と言って笑った。
その笑顔も、私には何処か冷たく感じる。この人は私のことが好きではない、という感じがするのだ。言葉にはしづらいけれど、冷たく鋭い目線が体に刺さる感じがする。
「土曜日のことで連絡したくて、ちょうど探してたんだ。連絡先交換しなかったから、もう諦めようかって思ってた」
そう言えば、花見をする場所も時間も分からない。
「申し訳ありません」
私が謝罪すると、藤瑚先輩は「君は悪くないけど」と断った。そう返す言葉の一つひとつにも冷酷な感情しか感じられない。牡丹さんが同じことを言ったら全く違って聞こえただろう。
牡丹さんと私の家に帰りたい。
心からそう願った。
暗くて重い私の心が、汚く濁って見通しの悪い私の未来が、牡丹さんという存在を思い浮かべるだけで明るく軽くなっていく。そのことが私の救いだ。笑ってくれるところを想像して、声を掛けてくれるところを想像して、私はそれで少し持ち直す。
「連絡先、メールでいいですか」
私が尋ねると藤瑚先輩は「うん」と頷いてスマートフォンを差し出した。
その画面にはQRコードが表示されていた。
「(なにかしら、これ)」
なんと言っていいのかも分からず、私は藤瑚先輩を見た。彼は然も煩わしいと言わんばかりの表情で私を見返した。眼鏡の奥の目が冷たい。
「ラインやってる?」
ライン?
「分かりません」
藤瑚先輩は「何それ」と呟いた。
『何それ』?
それは私の台詞だ。
花見をするのに、こんな風に蔑まれて、うっとうしがられて、顰めっ面されて、私だって不快な気分になる。連絡先を交換するだけのことなのに。なんで。どうして。
私には分からない。
「梅香ちゃんって家どこ? 電車使ってる?」
「え」
「言いたくなければいいけど」
「あの、いえ。最寄りは広尾です」
「日比谷線だよね。じゃあ広尾の改札に朝10時に来て。迎えに行くから」
え?
藤瑚先輩は「30分以上遅刻したら置いて行くから」と言って、その場を立ち去ってしまった。
私には藤瑚先輩の考えていることが全く分からない。牡丹さんとは余りに違う。あやめとは余りに違う。目が合った時に少し微笑む感じとか、様子を窺う時の探るような不安そうな目とか、そういう言葉にしないところでコミュニケーションを取れたらいいのに。藤瑚先輩はただただ冷たい。
私は取り残されて、立ち尽くした。
嫌だな。
春に浮かれた世界は嫌いだ。
春は風が気持ちいいから好き。春は桜が咲くから好き。春は不思議な形の雲を見掛けるから好き。春の早朝、静かで穏やかで少し冷たい空気が好き。鳥のさえずり、虫の音、風が吹いて木々が揺れて花の匂いを運ぶ春。
人間の居ない春はなんて素晴らしいものか。
春に浮かれた人間の世界は、なんて不愉快なものか。
私は重い足取りで学校を後にして、近所にある桜の並木道を通って帰った。並木道沿いにある小道とベンチには大学生らしき人や会社員らしき人がたくさん居た。
ああ、そうか。
今日は金曜日だもの。
桜は満開を過ぎて散っていく。風のひと吹き、ふた吹きごとに散っていく。
その美しさを損なう騒がしい声が、私には不愉快で堪らなかった。
浮かれて酔って騒いでいる。
私は春の世界を睨んで帰った。