私が事の顛末を説明すると、ウォルターは「そう。それでは苦労を掛けたね」と労った。そしてウォルター付きの綺麗な少年が深く頭を下げて部屋を出るのを見送ると、その少年に全く引けを取らない端正な顔を私の顔の至近距離に迫らせて微笑んだ。
「あの、これは」
そして押し倒された。
「あ、の。こ、れ、は?」
今、私の顔は引き攣っていると思う。目の前にあるのは肉の欲望からは程遠い、ともすると神か仏かと言われてもそのまま受け入れてしまえる容姿をしている人だから却って暴れて抵抗することもできないでいる。
ひくり、と目元が痙攣した。
「疲れた?」
「い、いえ」
そんなことよりも今のこの状況の方がどうかしてると思うんだけど。
「君が魔物なら、私のことを食べるのかい?」
はい!?
「その濡れた瞳が、曇りなく澄んだ漆黒の闇が、世界の全てを飲み込んで行くのだと聞いたことがある」
「お伽話ですよね」
「ローラン…」
ヤバい。この目、ミクと同じだ。
「貴方たちの目の方がずっと綺麗です。これは色んな色が混ざってできた濁った目です」
智仁との決定的な違いはこの目だと思う。人の内面や性格は結局どれも有り触れたものだから、それはそれぞれ大して違ってもいないけれど、この目は私とお兄ちゃんを確実に峻別する決定的な差異だ。
和山さんと私は別の人格を持っていたけれど、この目はそうではないと教えてくれた。
似ているところが有ることは、救いだ。
ウォルターはじっと私を見詰めてから目尻に口付けた。
「やはり」
ウォルターはそう小さく呟いてからもう一方の目尻にも口付けた。
「魔物も、泣くのだね」
何を言っているのだろうか、この男は。何に囚われているのだろうか、その瞳は。煌めく翡翠は黒よりもずっと繊細に光を弾くのに、ウォルターの目はそんなものを望まないとばかりに受容を拒否する。
世界の全ての色彩よりも、彼らは黒を求める。
あ、そうか。
彼らには見えていないんだ。
この美しい世界に溢れる色彩が。
見えていないんだ。
ウォルターは新月の夜にしか現れない奈落の闇に心を奪われている。私の目が智仁やほのかの青を羨望しているのと同じように、或はそれ以上に、私の黒を欲している。
簡単なことだった。
「泣くよ。誰だって、寂しい時はありますから」
ウォルターは倒れ込むようにして私に抱き付いてきた。それは心地好い重みだと思った。
その子どもは一見するとただの貧しい少年のようだったが、話してみるとそうではないらしいことが分かる。子ども特有の無邪気で残酷な態度の中に、蒙昧なところはない。
外見だけが、惜しいと思う。
「ルシフェル=ノクスは芸術家でね。少し風変わりなところがあるが、作品は素晴らしい」
「芸術家ですか。ミスター・アレンはそういった方面にも造詣が深いんですね」
私は外交用の笑みを浮かべて言った。
「乙女心はわかってないけどね」
ノクスの険のある言葉に、アレンは無言で応える。アレン程の由緒ある貴族にこの様に発言できるのは恐らく世界中でノクスだけに違いない。未だに私のことを警戒しているこの屋敷の執事は、しかしノクスの無礼を咎めようとはしないのだから、彼らには相当の信頼関係があるのだろう。
「だいたい油の臭いがするっていうのもおかしいんだよね。そんな顔料使ってないんだからさ」
「油の臭いなんてしませんよ」
「ほらね」
レルムが透かさず反応するとノクスは勝ち誇ったように身体を反らしてアレンを見た。アレンはやはり口では何も答えずに眉根を寄せるだけだ。
「芸術家と言うと、どのような分野なんですか?」
私が尋ねると、アレンは「絵描きですよ」と澄まして答えた。
「昔は人形を作ってたんだよ。でもあんまり売れなくなったから、他のことして稼いでんの」
「簡単に言いますね」
「簡単じゃないよ」
ノクスは機嫌を損ねたのかぶっきらぼうに言った。
「すみません。私も研究者なので、そういったことのご苦労はお察しします」
慌てて弁明してもノクスはまだ不機嫌そうだ。
「気に病むことはない」
どうしようかと言葉を探していると、アレンが鷹揚にそう言った。ノクスの方を見るとやはり不機嫌そうな顔をしているから気に病まない訳には行かない。
「いいえ。すみません、心無いことを言いました」
丁寧に詫びる積もりで繰り返し謝罪すると、今度はアレンが不愉快そうに顔を顰めた。
なんだか不味いことになった。
「絵画と言いましたが、人形作りと通じるものがあるんですか」
極力笑顔を心掛けてノクスに話し掛けると、少し機嫌を直してくれたらしく勝ち気に答えてくれた。
「人形以上の芸術なんてないもん。人形ぐらい綺麗で恐ろしいものはないよ。絵で同じことはできないけど、人形作りの筆でも絵は描けるでしょう?」
片方の眉を持ち上げる様はアレンにそっくりだったが、とても当人同士には言えず、心の中でそっと笑う。
「なるほど。一度その人形も拝見してみたいです」
それは強ちお世辞でもなかった。
しかしノクスはきょとんと動きを止めた。
「あの、何か?」
私が恐々そう聞くと、ノクスは然もありなんと首を傾げた。そして言った。
「その子がそうじゃないの?」
『その子』だって?
ノクスの視線を辿ると、そこにはレルムしかいない。
「テンマの子どもでしょう?」
何故、どういうことだ。
「でしょ?」
ノクスはレルムを頭から爪先までさっと見てから、念を押すようにそう言った。アレンを見ると、彼も目を見開いていて、当事者のレルムでさえノクスの言葉に驚いているようだった。
一番驚いているのは、私だ。
生きる意味があるとすれば、それは細やかな希望があること。大いなる野望も革新的展望もない。そして人生のどん底に突き落とすような苦痛もない。この手にあるのは野菜が溶けて甘ったるくなったスープのような希望。
『絶望するな』と文豪が言った。
私には希望がある。それは今日を生きるのには十分なものだし、或は明日を夢見ることのできるものだ。
スープから白くて温かな湯気が上って顔をゆっくり包んでいった。澤口司令はそれを大きめのスプーンで掬ってそっと口に流し込む。
「うん、美味しい」
私は自分でもスープを掬って飲んでみる。
美味しいとは思わなかった。
「ありがとう。私には、普通のスープだけど」
スプーンでカップをぐるりと回すといい匂いが湯気とともに漂ったけれど、それはあくまでよくある平凡なスープのものだ。ホワイトソースを小麦粉から作ったこと以外にはこだわりも工夫もない。
澤口司令は私を見てから破顔した。
「今日は第8管区防衛局長との会食じゃなかった?」
澤口司令の視線に耐え兼ねて私が尋ねると、彼は「そうですよ」と暢気に答えた。
「リュウを連れて行った?」
「何故私と食事を?」
「え?」
私が?
それは、何故って。
私は言葉に窮した。
「そうしたいと、思ったからじゃないかな」
私が苦し紛れにそう言うと、澤口司令は厭な顔もせずに「ありがとう」と言った。
私は澤口司令を利用している。彼はそれに気付いている。
だから、何。
「そろそろ肉が焼けたかな?」
私が立ち上がると澤口司令は「いい匂いがする」とだけ言った。その声にはなんの感情もない。私を冷笑することも疎ましがることもない。彼は怒ったり悲しんだりするべき時に、却って感情が凪いでしまうらしい。
肉の焼け具合を見ると言ってキッチンでふうと息を吐き出すと、澤口司令にすぐ背後から名前を呼び掛けられた。驚いて脈が跳ねた。
「私以外の人間も、よく招待するんですか」
そう言葉を続けながら彼の指先は遊女のように食器を撫でた。澤口司令との食事には使ったことのないカップル向けのペアの食器だ。
その声は、無感情だった。
世界の絶望を見た気がした。
私は人生で一度たりともモテたことがない。10代の頃に女の子が好きになって気持ち悪いとこっぴどくフラれた。20代になってからはいい感じになった上司に奥さんと子どもがいることに気付いた。
「はあー」
思わず溜め息が漏れる。
「相変わらず薄幸オーラ背負ってますね」
振り返るとうんざりした顔でリノが立っていた。訓練の後なのか髪が少し濡れていて気怠そうだ。
「口説かれたのかと思ったんだけど、いま思うと身体が目的だったのかなと思って。はあー」
リノはちょっと驚いたように目を見開いた。長い睫毛をぱさぱさと上下させている。
「ごめん、子どもにする話しじゃなかったですね」
リノはまだ12歳なのに。
「で、ヤったんですか」
「え?」
リノは実験器具でぐちゃぐちゃの机に腰をかけてなんでもないように尋ねた。
「や、やっ、て」
あれ?
そう言えば。
「……楽しく飲んだだけです」
今度はリノがわざとらしく「はあー」と溜め息を吐いた。
合コンで可愛い女の子を口説いた。谷田部さんは美人ではなかったけれど、何故か俺は彼女がとても気になった。
「木邨さんって、何考えてるか分からない人ですね」
「そお?」
谷田部さんはグラスをくるくる回した。丸い手の甲と長い指は白くてふっくらとしているのでマシュマロみたいだと思った。
「悪い意味じゃないですよ」
嗚呼、その言葉は何度となく聞いてきた。
「じゃあ、褒めてくれたの?」
“悪い意味じゃない”という言葉も、“褒め”言葉も、俺にとっては慣れたものだ。どうってことない。どうだっていい。藍沢さんだけが心の底から俺のことを嫌悪していて、心の上辺を滑るその他の言葉はなんだっていい。彼らには俺がなんだろうと気に掛けやしないのだから。
美辞麗句は聞き流すものだ。
「そうですね。ただ、そう思っただけなんですけど」
「俺は谷田部さんのこと考えてるよ」
「幹事だからって、残り物の私に気を遣っていただかなくても平気です。私、フラれたばっかりだから、あそこに連れ出してもらっただけだし」
谷田部さんはふうと息を吐いた。
「俺もね、一昨日フラれたんだよ」
グラスの氷がからんと崩れた。
「え、そうなんですか」
いいえ、嘘です。
もう来ないでくれと藍沢さんに哀願されはしたけれど、そもそも俺には彼女なんていない。フるもフラれるもない。
でも傷を癒し合うって状況の方が女は好きだよな。
俺はちょっと悲しげに俯いて見せた。
「嫌になっちゃったんだって」
「それは、なんて言うか、強烈な別れ文句ですね」
ちょっと笑ってから谷田部さんは「なんかすみません」と頭を下げた。真っ黒のショートヘアが白い肌にかかる。
「お互い気楽に飲もう」
俺の言葉に谷田部さんは黙って頷いた。
触りたい。
ふっくらとしたこのマシュマロに触りたい。胸はEカップぐらいだな。胸から脇腹、くびれ、腰にかけてのラインがたまらない。綺麗な脚とは言えないけれどすごくキュートだと思う。
どうしたんだろう、酔ってんのかな。
俺は谷田部さんを真似てふうと息を吐いてからグラスを揺らした。
ちょっと動揺して髪を耳にかけた谷田部さんの挙動ははやりどうして可愛く思えて仕方がない。形の揃った楕円の爪は華やかではないけれど、顔の真ん中にありながらその鼻梁は自己主張がないけれど、短くて飾り気のない髪に色気は感じないけれど、その辺の女とは違う気がする。
例えば匂いとか。
「あの、きっといいことありますよ」
谷田部さんはそう言って神妙な顔でうんと頷いた。
いいこと、ね。
嗚呼、でも、おかしいな。すんと匂いを嗅いでみるけど煙草の臭いしかしない。
そうか、やっぱり。
たぶん酔ってるんだな、俺。
「いいこと、ねえ」
あったかもしれない。
「そうです」
谷田部さんはうんうんと今度は力強く頷く。
そうですね。
君に逢えたしね。
谷田部さんは少し長く俺に目をとめてから頬を赤くした。
俺は彼女はやっぱりとてもキュートだなと感心した。