化学室にいると昔の記憶が蘇る。
扉を2つ抜けた先にある第2化学準備室。マイヤー先生はいつもそこで仕事をしていた。コーヒーを片手に課題を見たり論文を読んだりする先生は当時から嫌いではなかった。怖くないし、痛くしないし。
今もきっとすぐそこにいる。
大きな白衣、清潔なシャツとタイ、長い手足、鋭い目、薄く笑う唇、鮮やかに赤い舌、身体に染み渡る声。
『ノイ、』
「ノイウェンス」
突然かけられた声に振り返るとピノがいた。その姿は僕の背中から入る夕日に染められて芸術的に思えた。
「、何」
「私は覚えていますよ」
「…何を」
「あの時のあれが君だってことにも気付いていました」
「……何?」
「これからマイヤー先生に会うんですか?」
ピノは何かに怒っているようだった。
「いや、別に」
会おうとしていたけれど。
教室を出ようと立ち上がると「ちょっと来て」と呼ばれた。僕が渋っていると手を取って無理に連れて行く。僕の分からないところで僕に怒って僕を連れて行く。
「黙っていてすみません」
その声にさえ怒りを孕ませて。
僕には何に対する謝罪なのか少しも分からない。
「ちょっと…」
「ここで、一度あなたに会ってます」
「え?」
「退学する前、」
ピノが退学する前、化学準備室から一番近いトイレで、僕は。
「よく分からないよ」
トイレの前まで来ると自分の手が震えていることに気付いた。恐怖したのでも驚愕したのでもまして歓喜したのでもない。ただピノを振り払うだけの力が出ないくらい小刻みに震えているのが自分でも分かった。
今度は僕が夕日に照らされる。
「まだあんなことを続けているんですか」
「知らない」
「君はもう子どもじゃない」
「分かってるよ」
「自分で断らないとマイヤー先生はいつまでだって、」
「うるさい!」
どうして彼が怒っているのだろうか。逆光に潜む野生的な眼が僕を捕捉する。
「……」
どうして僕は怒っているのだろうか。
「…、君には関係ない」
責められるべきは誰?
あの頃は一人で堪えるしかなくて誰にも打ち明けずに最低な気持ちを味わった。しかし逃げようと思えばいつでもできたのにそうしなかったのも僕自身。
心の底では先生を受け入れていたのかもしれない。
彼を嫌悪しただけではない真実。
嫌な感情は全て忘れてマイヤー先生と新しい関係を築いていく。そう決めたから先生の腕の中でまた泣いて、そして笑った。都合が悪いから蓋をしたのではなくて必要がないからほんの少し美化しただけだ。
ピノでさえ齎さなかった感情の為に、僕は笑う。
マイヤー先生も僕も悪くない。
「どうしてここで一人で泣いていたんですか?」
「……」
「マイヤー先生はあなたを傷付けたのではありませんか?」
「なんのことか分からない」
「分かってるんですよね?」
「……」
「僕はあなたから服を奪って泣かせたまま置いていったりはしない」
乾いた音が響いた。
自由だった僕の手が彼の頬を叩いた。自由をこんなことの為に行使する自分の矮小さに、かつてのマイヤー先生の理不尽な暴力を思い出して言いようのない悲しさが込み上げる。
「ごめん、」
ピノは握った手をそれでも放さなかった。
「あなたは悪くない。マイヤー先生も悪くない。ただ少し、間違えちゃっただけですよ」
「……」
それが致命的な間違いでも、そう言ってくれる?
「マイヤー先生に、何か嫌なことされていたんじゃありませんか?」
「……」
それを歓迎した瞬間があったとしても、軽蔑しない?
「ノイ、」
『ノイ、』
「せんせ…っ、ごめん、先生、」
その名前が酷く汚れたものでも、また呼んでくれる?
僕を迎えに来てくれるのはマイヤー先生だけだった。殴られても蹴られても優しく撫でてくれたら途端に安心できた。名前を呼んで、閉じ込めて、僕の全てを曝け出しても笑ってくれた。
「怖いこと、ないから。ゆっくり呼吸してごらん?」
「せんせえっ、ごめんなさい、」
でも先生の笑顔は、残忍だった。
「大丈夫ですよ」
僕を包むピノの身体は言葉とは裏腹に乱暴だけれど、その熱はじわじわと染みて確実に伝わってくる。心まで容易に解かす哀切なその温度は、少しもぶれずに人に届く。
卑怯でも残忍でもない体温。
「ごめんなさい、死ぬから、許して、」
生きる価値のない僕が煩わしてごめんなさい。迷惑ばかりでごめんなさい。我が儘に無駄に生きてごめんなさい。
ピノには知られたくなかった。
「大丈夫。また一緒に授業を受けられるよ。いまノイが頑張ってくれてるの分かるから俺も嬉しい」
下品で劣等で貧しい僕の本性。
「ごめん。ごめん、ピノ…」
胸が締め付けられたら痛い。鮮烈に蘇る言葉は凶器だ。繰り返される行為に僕は何を思った?
この感情はなんだ。
この感情はなんだ。
「ノイ、大丈夫。つらいね、でも大丈夫だよ」
白衣、タイ、長い手足、鋭い目、笑う唇、舌、声。それらが僕に何をしたのか、きっと永遠に忘れたりしない。蘇って苦しめて、僕は吐く。
「放して、吐き気がっ」
個室の便器に流れ出たものは臭くて汚い。それがさっきまでは僕の体内にあった。
直ぐに流して口を漱いだ。
「大丈夫?」
「ごめん、急に」
「俺はいいよ。お前大丈夫なの? 風邪?」
「…ごめん、汚いから、」
ピノを避けても彼は離れてくれなかった。
嗤わない。卑しめない。汚い僕を見下しもせず雑菌だらけの雑巾を押し付けもせず、只管不安気に僕を見る。
「服の替えあるか? 汚れたの襟と袖のところだけだから、洗えばちゃんと綺麗になるよ」
違う。
「違う、ごめん、」
「大丈夫。人に言ったりしねえから」
「違う。みんな知ってるよ」
「は?」
「僕が毎日吐いてるの、みんな知ってるんだ…」
「……」
醜い僕を見てくれるのはマイヤー先生だけ?
「ごめん…」
そうやってまた抱き締めてくれるから、僕は分からなくなる。
「大丈夫。そんなの一生続かないから」
決して僕の行為を否定しないで、けれどゆったり安心させるように、医師もジョシュもしなかったやり方で受け入れた。
「…、ごめんっ」
僕は泣いた。
本当は分かっていたんだ。マイヤー先生の行為を少しだけ喜んだことのある自分を。吐き気なんてないのに無理に喉に手を突っ込んで嘔吐している自分を。食べたくて仕方ないのに拒食する自分を。作り笑いで好きだと言って先生に取り入ろうとする自分を。
毎日助けを求めてた。
毎日、毎晩、毎朝、毎秒。
この感情は何?
「ほら、大丈夫だったろ?」
僕は泣いた。排水溝に涙も鼻水も吸い込まれていった。いつの間にか真っ暗な世界にこのトイレだけが清潔に明るくて、あの頃に感じていた薄暗さなんてピノ一人の存在で打ち消せるのだと知った。