彼女は遠くへ行ってしまった。触れてはいけない場所。あの柔らかい肌に一度だけでも触れてみたかった。
そしてできることなら、俺だけのものに。
「それって、けっきょく初恋のまま失恋し損ねたってことだね」
中野ははにかんで言った。
中野と共演することが決まった時、初対面で挨拶をした時、初めて食事をした時、この男は次々と印象を変えていった。中野と俺が似ているのだと気付いてからは、中野に対する気持ちは明らかに好意へと変わった。
「失恋?」
確かに、凛とは『失恋』する程の仲ではなかった。
「恋をしたら、心のスイッチを押すんだよ」
「スイッチ?」
「スイッチを入れるのは相手だけど、切る時は自分でね」
「俺にもスイッチあんの?」
中野は緩く笑った。
「あるよ。見える」
「見えんのかよ」
俺が言うと中野は声に出して笑った。
中野と暫く飲んでいると、約束の時間より1時間近く遅れて宗谷が来た。宗谷は中野を慕っていて二人で買い物にも行くらしいが、俺は彼を好きではないしそれを宗谷もわかっていると思う。
「ごめん、遅れて」
「仕事?」
「ヤナに怒られてた」
『ヤナ』は宗谷のマネージャーだ。ヤナと呼ばれている梁川さんは名前を献(ささぐ)と言い、その名前のとおり宗谷にその身を捧げている。
怒られたという理由を聞くべきなのか、そう考えていると中野はドリンクメニューを宗谷に手渡して言った。
「ピアス増やした?」
「それ、それで怒られた」
うんざりした宗谷に負けないくらい、きっと俺もうんざりした顔をしているだろう。宗谷は年が若いこともあって言動が幼稚で、その所為で事務所に怒られることが多い。多分事務所だって注意するのにうんざりしているのだろう。それでも一応は中野が面倒を見ているからか今のところファンを泣かせるようなことはしていないらしい。
こいつの生活や仕事に興味はないけれど、中野がそれに気付いたことが俺にとっては意味がある。
この不愉快さ、これは嫉妬だ。
「中野クンはピアスしないね」
形だけメニューを眺めてからビールを注文した宗谷は、性格に似合わずお手拭きで手を丁寧に拭いながら中野の耳朶辺りに視線を定めた。
「イメージがね、あるから」
「そうねー」
宗谷は残念そうに唸った。
「それに痛そうだから」
「それ。僕としては、むしろ、どんだけ痛いのか気になんのよ。ならない?」
宗谷は楽しそうに言った。それには中野も俺も顔を顰める。
気に、なんねえよ。
「お前マゾなの」
俺が聞くと宗谷は真剣に悩んでいる風に腕を組んだ。
「相手によるよ」
ああ、それは。余りに真面目な回答だ。こういうクソ真面目で実直なところが宗谷の売りなのだけれど、俺には単なる馬鹿が浅はかな言動をしているだけにしか思えない。だからその宗谷に付き合ってやっている中野は仏か菩薩なのだ。
「やらしーね、それ」
中野が笑って言った。
確かに宗谷の言い方は卑猥だったから淫行罪で逮捕されて服役して償って欲しいところだったけれど、中野がそう言うと、そんな言い方をすると、却ってその方が背徳を覚える。
『やらしー』
黙ってしまった。
なんて言えばいいんだ、こんな時。
思えば宗谷も黙り込んでいる。
「ごめん。子どもっぽかったね。変なこと言ってごめん」
中野が申し訳なさそうに謝ったので、俺も宗谷も慌てて否定した。中野にそんな思いをさせるなんてことは俺も宗谷も望んでいない。
中野は所在無く笑った。
中野と付き合う女はこいつが笑ったり泣いたり照れたりするのを間近で見られるのだと改めて思った。きっと俺には見せてくれないところもあるだろう。
「いやー、中野クンって、面白いね」
宗谷がちょっと複雑な顔で言った。これには俺も無言で同意した。
「中野って、彼女いるんだっけ」
俺が尋ねると中野は特に気にした風でもなく首を横に振った。
「仕事があるから、やっぱり」
俺は中野に同意する気持ちを込めて頷いた。俺が凛を諦めたのは、それはやはり仕事があったからだ。仕事について中野と同じ姿勢でいることは嬉しい。
「なんで。中野クンなら彼女いたって大丈夫でしょ」
宗谷が軽薄な声で言った。
だからお前は売れないんだ。
お前は分かっていない。
曰く、“虻蜂取らず”。