「京香」
その声は優しげに響いた。
「ミク、」
「帰りが遅いから心配したよ」
ミクはどこか幼稚で、それでいて排他的な笑みを浮かべていた。緑青に覆われた瞳の奥には暗い闇が見え隠れする。
「こんにちは」
レオンがそう言うと、ミクは初めて気付いたかのようにレオンを見た。
「こんにちは」
ミクの大きな瞳がぐりぐりと動いてレオンを観察している。そこには邪気を感じさせない。
「俺、京香ちゃんと友達で、いま食事に誘ってたとこなんですけど。彼氏がいたんだね、知らなかった」
レオンは頭を掻いた。
ミクに比べれば、得体の知れないレオンでも、ずっと好感が持てる。
「彼氏じゃないよ」
「もっと親しいよね」
ミクは私を見て破顔した。
透き通るように白くて艶のある頬をほんのりピンクに染めて伏し目がちに照れる様は、芸術性さえ感じる程に完璧に疑いようもなく純潔で無垢で愛らしく汚れを知らない美少年だった。
なんてことだ。
非常に不本意ながら私まで顔を赤く染めていた。
「もっと、親しい、」
レオンはすっかり私たちの相思相愛を信頼してしまったらしかった。
なんてことだ。
レオンは思案するように赤茶の瞳を左右に揺らして、「もっと、親しい、」と繰り返した。そして曖昧に別れを告げて立ち去った。
「大丈夫。あの人は私の知り合いで、知らない人といたから心配しちゃったみたい」
私がそう言っても、レオンはまだ心配そうにしている。頭を掻きながら眉間に皺を寄せている。
レオンは私のことをじっと見た。
「そうか。でも何かあったら俺を頼ってよ」
女性的なレオンの顔は精悍に引き締まった。私は黒っぽく見えていたレオンの瞳は、もっと凛々しく激しく滾る赤茶だと気付いた。
私は今まで人に頼って生きて来た。灘崎の人たちは勿論だけれど、小学生のときの担任も和山さんもチームの皆も私を支えてくれた。
でも、これ以上は、駄目だ。
「ありがとう」
これ以上は、駄目だ。
私はここへ来てから智仁に頼りっぱなしだ。ラゼルにもウォルターにも頼り過ぎた。
だから、これ以上は。
ありがとう。
でも駄目みたい。
私は駄目な人間だったから、せめて私の周りの人たちを駄目にしないようにしなければいけない。大切な人たちを、優しい人たちを、駄目にしたくない。
レオンは微かに笑んだ。
私もそうした。
ミクと暮らすようになってから3日が過ぎた。仕事には出ているのでミクの家に戻らなければいいのだけれど、そう簡単に割り切れないのが現実だった。
同情って訳でもないのだけれど。
「やあ、お嬢さん」
そう言われて振り返ると、レオンが居た。
「あ、」
「いま仕事終わったところ?」
レオンは普通に話し掛けてきたけれど、私は違った。最後に会った時一緒に食事していたのに、私は彼らを置いて黙って帰ってしまった。裏切り者だと思われているに違いない。
「この間の、」
私がそう言い掛けるとレオンは言葉を遮って話しを続けた。
「俺たち暫くここに居ることになったよ」
「え、ほんと?」
「京香ちゃんが時間あるとき、また食事しようよ」
あ、そうか。
レオンは、あの時の埋め合わせをさせようとしているのだ。
「この間は、ごめんなさい」
レオンは真剣な面持ちで私を見た。顔が女性的だからと言うべきか女性的なのにと言うべきか、優しげな中にも鋭さが含まれている。やはり私の無礼を怒っているらしい。
「大丈夫なの?」
レオンは私の憶測に反してそう言った。
「え、何が……?」
「あの男、京香ちゃんに何かしてるんじゃないの?」
なんてことだ。
私は最低だ。
低俗な私のように、同じくレオンもまた低俗だとどうして考えてしまえたのだろうか。最低だ。
レオンは私を心配していた。
レオンとヤンが何か特別な意思をもって私に接触したのは確かだけれど、それは低俗で悪意の篭った意思だとは限らない。
『貴女は、本当に、シークではないんですね』
そう言ったヤンの顔は純然たる驚きの表情だった。
「私って、」
最低だ。
レオンは日本画の美女のように首を傾げて、心配げに眉根を寄せた。