主人が嬉しそうに笑うと私も嬉しくなる。主人の喜ぶこと、主人の好むこと、主人の愛するもの、主人の選ぶもの、それらが分かると私はとても嬉しくなる。
そう教えられてきたし、そうあるべきだ。私のような人間を迎えて雇ってくださる人に、恩を示して報いることになんの疑問の余地があるだろうか。
しかし私には、その当然のことが、時々恐ろしくなることがある。
主人が無知蒙昧の男だったら?
主人が悪逆無道な男だったら?
主人が悪人だったら?
私は信じて付き従う人を、自ら選べるのだろうか。そんな良識と勇気を、果たして持ち合わせているだろうか。
私には分からない。だから恐ろしくなる。
「ありがとう」
アキ様は傷だらけの腕を伸ばしてタオルを受け取った。
見た目には唯の子供にしか見えない彼が適格者だというのがまだ信じられない。ただ、アキ様から感じる底知れない不気味さが、唯一彼をそう思わせる。
「いつから家事役なの?」
アキ様は髪から滴る水を乱暴にタオルで吸い取りながら言った。
「3年程前からです」
「そっか。今忙しいのに、呼んじゃってごめんね」
「とんでもございません」
それに続く言葉は、思い浮かばなかった。
【呪う者の悲哀】
シエラは悲しげに私を呼んだ。時折見せるその息苦しそうな表情を見ると、私はとても悲しくなる。
シエラは呪われている。
「旦那様はまだお目覚めになりません。寝室がお留守でしたから、書斎にいらっしゃるようです。エリーゼが書斎に伺っています」
書斎の中から入れる続きの部屋にはベッドが置かれていて、主人は書斎で遅くまで仕事をした時は寝室まで行かず、そこで寝てしまうことも多かった。昨夜も遅くまで部屋から明かりが漏れていたから、そこで寝たのだろう。
「分かった。私も行くよ」
私がそう言うと、シエラは小さく頭を下げた。
不憫なシエラ。
シエラを呪ったのは、私だ。
書斎に向かうと、エリーゼが扉の前に立っていた。
エリーゼはつい最近雇われた女だ。誰かからの紹介らしいが詳しいことは分からない。主人が宜しく、とおっしゃったから、私は彼女に仕事を教えるだけだ。
「おはよう、エリーゼ」
エリーゼははっとして私を見上げた。
「おはようございます、ジョセフ様。あの、ノックしたのですけれど、お返事がなくて」
私もノックしてみた。
返事はない。
「失礼致します」
書斎に入ると部屋は暗いままだったが、奥からは明るい光が見えた。持ってきた主人の着替えを書斎に置いて、部屋の奥の入口に立つと、ベッドの上で主人は上体を起こして本を読んでいるのが見えた。
「おはようございます」
「おはよう」
主人が穏やかに笑ったので私はほっとした。
「お茶をお持ちしても宜しいですか」
「頼む。もう起きるよ」
「かしこまりました。お召し物をお持ちしましょうか」
「構うな、向こうにあるのだろう?」
主人が書斎に目をやったので、私は「はい」と答えた。
「向こうで着替える」
「かしこまりました」
頭を下げて部屋を出ると、エリーゼがまだ立っていた。手にはティーセットの乗ったトレーを持っている。一度キッチンに戻っていたらしい。
エリーゼは字が読めて賢い女だった。お茶の淹れ方を教えると、茶葉の銘柄や淹れ方の違いをよく覚えた。またよく気の利く女で、手が欲しい時に頼まなくてもこうして手伝ってくれるので、助かっている。真面目な性格を気に入られて、他の給仕とも上手くやっているのも嬉しい点だ。
「もう起きていらっしゃるから、お茶をご用意して差し上げて」
私が言うとエリーゼは微笑んで「はい」と頷いて書斎に入っていった。
エリーゼの笑顔は清廉で明るくて、主人もそういうところを好んでいるのか、身の周りのことを直接頼むことも多いようだ。他の給仕達は主人を少し怖れているが、エリーゼはそうは見えないところも主人は好ましく思っているのかもしれない。
私も主人が少し怖い。
シエラだってそうだろう。
私は一度そこを離れて、新聞と手紙を持って主人の書斎に戻った。
主人は用意した服に着替えていた。そして楽しそうにエリーゼと話している。こういう明るい表情は私には見せないので、つい主人の顔をじっと見てしまった。
「ここら辺にあるものは、君にも楽しく読めると思うよ」
主人は書棚の一部を指差した。そこには小説や戯曲の本が並んでいる。宗教や哲学を題材にした古典的なものから、最近好まれるような俗っぽいものまである。俗っぽいものは、おそらく売り込みに来られて、そのまま買ったものだろう。どうやらこれらの本をエリーゼに貸してやるらしい。
エリーゼは嬉しそうに本を出しては冒頭の数行を読んでいる。
主人はエリーゼの様子を微笑みながら眺めては、時折その本について説明をした。声音も何処か優しげだ。
エリーゼはそんな主人の話しに嬉しそうに聞き入っては、また別の本を手に取って読んでいる。
二人が暫くそんなやり取りを続けていたので、私は新聞と手紙を静かに机に置いて、主人の脱いだローブを畳んで持った。
このまま失礼した方がいいかな。
私が部屋を出ようとしているのに気付いたのか、主人は「待ちなさい、ジョセフ」と言って呼び止めた。そして椅子に腰掛けて手紙を持つと、優雅にペーパーナイフで封を切って中身に目を通した。
「欠席だ」
主人はそう言って手紙を私に手渡した。
「かしこまりました」と言って受け取った手紙を見ると、結婚式の招待状だった。街の若い者からの招待なのでちょっとした祝儀と花束でも送れば良いだろう。
それから主人は軽く新聞にも目を通したが、その間に何度もエリーゼに目をやっていた。
「何か変わったことは?」
主人の質問に、私は「ございません」と答えた。
「そうか。ありがとう、もう下がっていい」
「はい。失礼致します」
私は礼をして部屋を出た。
主人の目線はずっとエリーゼにあった。
エリーゼのことが余程気に入ったらしい。
今までも『お気に入り』と呼べる給仕は何人か居たが、エリーゼに対してはそれより更に態度があからさまだ。普通なら贔屓していると思われて古株の給仕に嫉妬されるところだろうが、エリーゼの清廉さがそうさせないことは私にとっても有難いことだった。
煩わしいことが起きないといいが、この先もそうだという保証はない。
そもそも主人はエリーゼにどんな気持ちを?
まさか、恋慕を?
いや、まさか。
家事室に行くと給仕達が食事の支度を進めていた。そこにシエラを見付けて声を掛けた。
「シエラ」
「お兄様。先程エリーゼが茶器を持って書斎に行きましたよ」
「ああ、来てくれた。今もまだ書斎に居るんだが、他の仕事は大丈夫か?」
主人と仲良く話すことがエリーゼの仕事ではない。朝食の準備や接客の用意、買い出しなどもシエラの仕事だ。今、彼女が仕事をサボっているという訳でもないが。
シエラは「大丈夫よ」と言って笑った。
シエラは笑ったが、私には何処か悲しげに見えた。笑っていても苦しそうな目をしている。呪われているからだ。私に、呪われているからだ。そしていつか、シエラはこの街の『黒い柩』に、呪い殺されてしまいそうで恐ろしい。
アキ様もシエラと同じだ。
呪われている。
「シエラ、アキ様をお願いしてもいいか?」
「ええ」
「では朝食の準備と付き添いを頼むよ」
「かしこまりました」
シエラは笑って頷いた。
その瞬間、私はシエラを呪っていた。