「学園には慣れた?」
僕は今、自分が年甲斐もなく泣いてしまったことを忘れたくて明るく振舞っているところです。
空元気、と人は呼ぶ。
ケルビは僕を泣かせたことについて少しは気に病んでくれているのかどうなのか、或いは僕のことを理由もなく突如として泣き始める変人と認めたのか、初めての時のように邪険にすることはなくなった。
「ああ。まあ」
ケルビは慎重にそう答えた。
僕の様子を窺うようなその返答は、所謂腫れものに触る態度とでも言うべきものでしかなく、美男子の転校生とお近付きになりたかった僕としてはちょっと悲しい。
『学園には慣れた?』
『うん。君が優しくしてくれたからね。ありがとう』
なんてことを夢見るのは罪なことでしょうか。
「全く問題なさそうだな」
無愛想なケルビの代わりに爽やかに答えてくれたのはアグナコトルだった。
「ああ。問題ねえから。じゃ」
席を立ったケルビにアグナコトルが立ちはだかった。
「教科書とか、揃ってるの?」
「ァア?」
「それにトイレや更衣室や図書館やその他の様々な施設について、君はまだ知らないことが多いと思うのだけれど。生活するうちに慣れるものもあれば、知らなければ損をするものもある。誰かが教えたとは思えないけれど、どうかな」
ケルビは掌をアグナコトルに向けて、彼の弁舌を制止した。
「うるせえんだよ、てめぇは」
酷いことを言う人だと思ったけれど、ケルビの表情を見ると、彼は、笑っていた。きらきら光って嫌味のない笑い方だった。
心を奪われる。
平静を保つことは不可能。
アグナコトルもまた僕と同様だった。一目で分かる。彼は僕と同じだ。同類同属の同人種。同じ穴のむじな。アグナコトルは海竜種だから本来僕とは全く違う種族だけれど、ケルビに見惚れたその瞬間だけは同じものであっただろう。
引き付けられて締め付けられる。
身体が痺れる。
脳みそが痺れる。
【アグナコトルの落ちた場所】
僕の方はケルビに惚れている自覚があったのだけれどアグナコトルはどうなのだろうか。あの潔癖性の優等生がケルビみたいな最悪な生活態度の人間に惚れることがあり得るのだろうか。そしてそれを自覚してしまったら、どうなってしまうのだろうか。僕はそのことがとても疑問に思えた。
話そうとすると心臓が高鳴る、とか。
一瞬の笑顔に身悶える、とか。
あり得るのだろうか。
「じゃあさ、例えば、今日は何を教えてくれんの?」
ケルビが言った。
アグナコトルはケルビを真っ直ぐ見た。僕はそのアグナコトルをじっと見詰める。
「教えてあげるよ。なんだって」
恋人にするように、アグナコトルはケルビに優しく微笑み掛けた。少し傾げた首からはえも言われぬ嬌艶な色気が漂った。
鳥肌が立った。
はっきり言って、歯に衣着せぬ言葉を使えば、気持ち悪かった、ということです。
アグナコトルは不気味な欲望を感じさせる男の目をしていた。
僕は思い知った。
ああ、この人は、僕よりずっと深く自覚しているのだ。僕のそれより、アグナコトルの落ちた場所は、きっと、深い。
「『なんだって』、なんていうのは、ダメだ。付き合う価値がねえ」
「何故?」
ケルビはアグナコトルのちょっと不自然とも言える態度には気付いていないらしかった。ごく普通に受け答えしている。
「そんなもん、何も教えることがない人間の、詰まんねえ時間稼ぎだろ」
それは決して批難する色を付けずに響いた。
ケルビは言葉も態度も悪いけれど、その根幹にある“意地”とでも言うべきところについては一級の政治家のようだった。
凄い、と思う。
彼が放つ言葉にある不思議な力について、僕はまだよく知らない。
ケルビの思想はただ只管に乱暴だ。
しかし僕はそんなケルビの暴力的でめちゃくちゃな正義論の虜になった。ケルビが駄目だと言ったらそうなんだ。あの日ケルビは素晴らしい正義的暴力で僕の惰弱な正義を叩き潰してくれた。
理解なんてできなくていい。
ただもう一度、彼の正義に打ちのめされたい。
「俺になんか言いたかったらなあ、“これだけは”って言葉だけ用意して来い。頭のいいてめぇの頭でよく考えれば、そんなこと勝手に思い付くんじゃねぇの?」
ケルビはそう言ってアグナコトルに人差し指を突き立てた。細くて白くてしなやかで繊細な美しい指がアグナコトルを攻撃的に捉えたから、僕にはそれが羨ましいとさえ思えた。
いいんじゃないかな。
食べたり食べられたりっていうのも。
吠えて逃げて死にもの狂いで生き残るのが僕だけれど、ケルビみたいに、てめぇには食われねぇって顔でいるのも、悪くないよ。
ケルビは間違っている。
親切を無下にするのが正義である筈がない。
だけど。
けれど。
だったらなんでこんなに美しいんだろう。
僕達は知っている。
美しいものは、きっと正しい。
ケルビがその美しい顎で僕を噛むなら、そこから流れる血だって壮絶に美しいに違いない。ケルビの首を滴る血が、白い首筋に鮮やかに映えるんだ。
ケルビには、アグナコトルより僕の方が似合う。